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五輪反対とは言い切れない私 運動神経が悪いということ Vol.6

観戦専門とはいえ、いろいろなスポーツを好む割に、もともと五輪にはさほど関心が無い。フットボールは原則23歳以下の世代別トーナメント、ラグビーは7人制、総合格闘技や相撲はそもそも採用されていない。好きなスポーツのなかで五輪が最高峰といえるのは、陸上競技と柔道くらいだろうか。そんな私でも、2013年、当時のIOCロゲ会長の口から「Tokyo」と読み上げられた瞬間の喜びは記憶している。あえなく外れはしたが、チケットにも応募。自国で開催される世界的な祝祭は、それなりの楽しみだった。

どこの世論調査でも反対過半数が伝えられているが、はたして自分はどちらなのだろうかと、考えてしまう。IOCや組織委員会に政府や東京都、この期に及んで誰からも明確なメッセージが発せられることのない様子は、それぞれが「言い出しっぺ」になることを避け、責任を擦り合っているように映る。開催の賛否、私が反対に傾きそうになるのは、担うべきリーダーシップを発揮する素振りが感じられない人たちの顔を思い浮かべた時だ。

先月、陸上競技の五輪テスト大会が開催された。男子100メートルは2004年アテネ五輪と2017年ロンドン世界選手権を制したジャスティン・ガトリンが10秒24で優勝、日本の多田修平が100分の2秒差で2位と健闘した。しかしながら、より大きなトピックは場外にあり、会場の国立競技場周辺では五輪に反対する市民団体がデモを決行した。いまや五輪は、その名を聞くだけで国民感情を逆撫でする存在に堕してしまったようだが、デモに参加した人々は、密集状態でシュプレヒコールをあげる自らの行為が、反対理由の多くを占める「感染拡大のリスク」を孕んでいる矛盾を自覚していたのだろうか。選手個人へ代表辞退を求める一部の動きも、また然り。矛先を履き違え、正義感が暴走したような態度が散見しては、反対派に与する気も失せる。

五輪に関して、賛否のいずれにも振り切れない私は立ち位置が見当たらない。それでも、開催を純粋に楽しみにしている人たちを想うと、胸が痛む。メイン会場の設計やエンブレムのデザイン変更をはじめ、もともと災難続きのうえに絶賛ネガティブキャンペーン中とは、もしも五輪に人格があればきっと泣いているだろう。運動会の中止が迫られる状況に対し、「なぜ五輪はできるのか」とこぼしたのは他ならぬ現場の教員だという。「五輪に比べて運動会はレベルが低い」などという人がいれば笑止千万だろうが、その逆も然りということ、比較できることとできないこともわからなくなるほど疲弊した世間に、スポーツイベントが寄与できることもあるのではないか。そんな想いが捨てきれない。

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