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横並びの国 運動神経が悪いということ Vol.26

高校生たちが、張り詰めた面持ちで早朝の駅を横切っていく。今年も大学入試のシーズン。およそ20年前、浪人を経た私は2年がかりで受験した。今年の現役生たちは、コロナ禍に見舞われたまま3年間を終えようとしている。政府は、来たる卒業式をマスクなしで参加できるように調整しているというが、そんなことにも「お墨付き」が要求されるとは、この世の中は息苦しい。

せめて、春が来て大学生になれた暁には、部活やバイト、あらゆる社会経験を通じて大学生活を満喫してもらえたらと思う。わが学生時代を振り返れば、行動制限も自然災害も免れ、何でもできたはずが、およそ何もできなかった悔いが残る。私の高校では校則上バイトは禁じられていたものの、密かに勤しむ同級生はたくさんいたが、「ぜひ自分も」と便乗することはなく、帰宅部として暇を持て余した。1年遅れで大学に入ったあともそんな状態は続き、通っていた予備校でほんの数回の模試を手伝って日当をもらったのみで、本格的なバイトの経験は無いままに終えた。「働きたい」という意思が人間の本能なのだとしたら、私にはそれが欠落していたらしい。

やがて就職活動を通して、学生時代の経験としてアピールできるものを持たない肩身の狭さ、虚無感を味わった。なんとか現在の勤め先に就職できた後も、同僚には部活の出身者が数多く、彼らが培ってきた集団生活における振る舞いや処世術など、仕事を介して人間としての経験値の差を幾度となく痛感してきた。「何か、経験しといたほうがいいよ」。父の没後、かつての上司の方が自宅に立ち寄ってくれたとき、私の近況を案じるように話しかけられたのを憶えているが、その意味がわかったのは、ずっと後になってからだった。部活もバイトも経験しなかったことで私が失ったのは、社会人としてのトレーニングの機会だったのだ。

悔いや反省の一方で、素朴な疑問を抱く。高校の次は大学、その次は就職。入試や就活という関門を突破するため、勉学にも部活にも就業にも取り組む。世間の"王道"を歩むなら、そのプロセスが理想的なのは間違いない。ただ、誰もが同じように生きられない以上、王道から逸れた人でも歩んでいける道があって然るべきではないか。受験資格が求められる大学入試、新卒一括採用による就職。いつまでも外せないマスクのように、何かと横並びの世の中では、後戻りも、やり直しも難しい。「もっと学んでおけば」と思い直した社会人たち、あるいは「早く高等教育機関で学びたい」と希望する優れた中学生たちは、大学受験の会場で高校生たちと肩を並べていいはずだ。動画の時代、みんな巻き戻しやスキップのボタン操作には慣れているのだから、それを私たちの人生設計にも当てはめてみてはどうだろうか。

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