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世陸の顔 第3のリベロ Vol.19

陸上競技は、運動神経の悪い私が唯一、かじったことのあるスポーツだ。中学時代は陸上部。生涯で一度だけ、運動部というものに属した3年あまりだった。入学当初、50mのタイムが手動のストップウォッチで7秒3だったと記憶しているのは、足が速いというだけでなんとなく一目置かれる年頃、俊足でよく知られたクラスメイトと並んでトップになれたためだ。買ったばかりのスパイクでユニバー記念競技場のトラックを駆け抜けた100mは、14秒1で1着。それが、短いピークだった。早々と成長が止まって背の順がクラスで真ん中くらいになった頃、タイムはごく平均的になっていた。球技や体操はまるでできないが足だけは速いと思っていたのも、人並みより早い成長期のためだった。勘違いを思い知って以来、スポーツに取り組むこと自体が縁遠いものになった身には、たかだか40人程度のクラス内や陸上部員なら誰もが参加できる記録会での微かな喜びであっても、屈辱まみれの運動で得られたかけがえのない思い出となっている。

「世界陸上」と称してTBSで陸上の世界選手権の中継が始まったのは、陸上部員だった中学2年の時だ。メインパーソナリティーは、当時から織田裕二と中井美穂だった。私の習慣のなかに「世陸」の観戦が加わって以来、1997年のアテネに始まり、2007年の大阪や前回2019年のドーハに至るまで、各大会のハイライトは無駄知識ばかりの記憶の一部に組み込まれている。川平慈恵と矢田亜希子が現地から伝えた2001年エドモントン大会は、いまや文化人の風格も帯びる為末大が男子400mハードルで日本人として短距離種目初のメダルを獲得。2003年パリ大会、高野進の指導を受けた末續慎吾が男子200mで悲願の銅メダルを掴み取った瞬間は、涙がこぼれたものだ。四年に一度の五輪を挟み、前年と翌年に開催される大会は、前の五輪の余韻を再燃させ、次の五輪への興味を掻き立てる役割を担ってきた。

運動神経が悪いくせに観戦だけは熱心な私にも、どうも好きになれない競技はいくつかあって、その一つがバレーボールだ。V6や嵐やNEWS、近年は名前もわからなくなった。フジテレビが中継するワールドカップなど、まるで4年ごとに新ユニットが結成されるジャニーズのプロモーションイベントだ。他にも世界選手権やグランドチャンピオンシップと毎年のように類似イベントが開催され、それぞれがどう違うのか、なぜいつも日本開催なのかと疑問が尽きないが、全てを鵜呑みにする「ニッポン!チャチャチャ!」の黄色い声援には唖然とするしかない。陸上競技がバレーボールのようにならなくて良かったと、心から思っている。四半世紀にわたってパーソナリティを務めてきた織田裕二も、今大会限りでの卒業が発表された。体操や水泳など国際舞台で実績を残してきた競技とは異なり、日本のメダル獲得が困難な舞台にあって、日本人のみならず海外の選手も熱く応援してきた。いかにモノマネのネタにされようとも、長年の貢献を称えたい。「東京ラブストーリー」に「踊る大捜査線」、ドラマの代表作は断片的にしか知らない私にとって、織田裕二といえば世陸の顔だ。

陸上熱が高いという現地オレゴンのスタンドの盛り上がりは、画面越しにも伝わってくる。連休初日のハイテンションのなか、幕開けは男子100m。フレッド・カーリーの9秒79を筆頭に予選から好タイムが続出し、先月の日本選手権を制したサニブラウン・A・ハキームは自己ベストに迫る9秒98をマークして準決勝進出。世陸の放送開始当時、100mの日本記録は朝原宣治の10秒08で、同じ神戸出身の伊東浩司が10秒00で更新した。長らく足踏みが続き、永遠の壁かと思われた日本人の9秒台も、2017年の桐生祥秀以降、一人ならず達成する時代が到来した。一夜明けて風向きは変わり、予選から一転してタイムが伸びないなか、準決勝1組を走ったサニブラウンは10秒05で3着。後続の選手はわずかに及ばず、100分の1秒差により、ついに日本人が世界選手権の決勝進出を果たした。直後、織田裕二は泣いていた。たしか「ロケット・ボーイ」の撮影当時、サニブラウンと同様にヘルニアを患った経験も手伝ったのだろうが、25年分の情熱が込み上げた姿に見えた。決勝、1レーンを走ったサニブラウンは7着だったが、世界トップの8人に残り、最下位を免れたのは立派な快挙だ。サニブラウンが第2走者を務めるリレーは、大会終盤の来週末。もう一度、世陸の顔の涙が見たい。

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