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コロナ禍での年末年始の過ごし方

宅配業者は忙しい季節だ。各地から集められたものを目的地へと仕分けして送り出す。割れ物や精密機械や果物や冷蔵冷凍など様々な扱い方が求められる。整然とそれをこなすためには様々なルールとともに柔軟な判断力が求められる。

17世紀の近代教育の祖ヨハネス・アモス・コメニウス

「教えるとは,目的,形態,根源を異にする事物が互いにどう異なるかを示すことにほかならない。……それゆえ,事物をうまく区別できる者は教え方も優れているのである」

違いを明らかにするなら良い判断を下すことができる。
古代イスラエルの祭司たちは、律法を民に教える教師の役割を与えられていた。

「あなた​も​あなた​の​子​たち​も,会見​の​天幕​に​入る​時​は​ぶどう​酒​など​の​酒​を​飲ん​で​は​いけ​ない。死ぬ​こと​の​ない​ため​で​ある。これ​は​代々​ずっ​と​守る​べき​法令​で​ある。そう​する​の​は,聖​なる​もの​と​世俗​の​もの,汚れ​た​もの​と​清い​もの​を​

区別​する​ため,

モーセ​を​通し​て​エホバ​が​話​し​た​規定​全て​を​イスラエル​人​に​

教える​ため​

で​ある」レビ10:9-11

お酒を飲んでいい時と悪い時を区別することは現代でも大切なことだ。判断力はお酒によって鈍らされる。この言葉が語られる前に生じた出来事が記されている。

「さて,アロン​の​子​で​ある​ナダブ​と​アビフ​は,それぞれ​自分​の​香​入れ​を​取っ​て​炭火​を​入れ,香​を​載せ​た。そして​許可​さ​れ​て​い​ない​火​を​エホバ​の​前​に​捧げ​始め​た。それ​は​命じ​られ​て​い​た​こと​に​反し​て​い​た。すると​エホバ​の​もと​から​火​が​出​て​2​人​を​のみ込み,2​人​は​エホバ​の​前​で​死ん​だ。」レビ10:1,2

文脈からして酒を飲んで職務を行っていた可能性が考えられるが、この事件によって2人の息子の不祥事によって父親のアロンがどんな複雑な気持ちになったかを考えてみることができる。

祭司たちは贖罪のためのやぎの捧げ物の一部を食べることが規定されていた。しかし、アロンはこの時のやぎをすべて焼いてしまった。モーセはアロンが規定を破っていることを指摘したが、アロンはこう答えた。

「考え​て​み​て​ください。今日,彼ら​は​罪​の​捧げ物​と​全焼​の​捧げ物​を​エホバ​の​前​に​捧げ​まし​た。けれども,私​に​この​よう​な​こと​が​起き​まし​た。今日​私​が​罪​の​捧げ物​を​食べ​て​い​たら,エホバ​は​喜ん​で​くださっ​た​の​でしょ​う​か」レビ10:19

普段であるなら食べていたが、この時は状況が異なっていた。アロンはこの違いを区別できた。捧げ物をする目的を考えてこの例外的な状況でどう行動すべきか判断することができた。それゆえ神はそれを咎めなかった。

いつでも規則に則っていれば正しいとは限らない。規則の目的を考えてその規則の適用範囲の区画線がどこにあるかを判断することはなかなかに難しい。その判断を事情を知らない周囲の人は規則違反と非難するかもしれない。それを覚悟での判断には時として勇気がいることだろう。1度でも良心的な理由で規則を破ることを許せば様々な理由をつけて規則が崩壊してゆくように感じられるかもしれない。人の組織の中でその判断を取り締まるのはなかなか難しい。それゆえ機械的に規則に従うだけの思考停止が生じやすい。

食物についても律法が与えられていた。

「イスラエル​人​に​こう​告げ​なさい。『食べ​て​よ​い​地上​の​生き物​は​次​の​通り​で​ある。ひづめ​が​割れ​て​い​て​完全​に​分かれ​て​おり,しかも​反すう​する​動物​は​全て,食べ​て​よ​い。」レビ11:2,3

「水​の​中​に​いる​あらゆる​もの​の​うち​食べ​て​よい​もの​は​次​の​通り​で​ある。海​や​川​など​水​の​中​に​いる​ひれ​と​うろこ​が​ある​もの​は,食べ​て​よ​い。」レビ11:9

これらの規定を守るためにはよく観察して判断する必要があったことだろう。イスラエル人は日頃から区別する力を訓練されていた。

様々な情報は宅配物のようかもしれない。情報を得た時、その情報に応じて様々な扱い方が求められる。その目的地に応じて仕分けして必要とする所へ届ける。区別する力があるなら、整然とした状態で的確な判断のもと目的地に届き成果を喜ぶことができる。

聖書の3番目の書はレビ記と呼ばれているが、書かれてからしばらくはヘブライ語で「呼ぶ」という言葉がその書名となっていった。神が人を呼び寄せる際、その者は清く正しい者、汚点やシミのない者となっている必要があった。聖なる状態になることが求められた。「聖なる」というヘブライ語の言葉は「分離する」という意味の言葉から生じている。鉱物を精錬して金や銀を分離したり、ダイヤモンドが美しく輝くようカットしたり研磨したりするように、人が神の前に出る時も、不純物は洗い流し心も体もピカピカの状態で近づく必要があった。神の神聖さは確かに近づきがたさや畏れを感じさせるが、人が一皮むけて成長することや身体や住居を清潔に保つことは清々しさを感じ心地よいものだ。親が子どもの清潔さや成長を見守るように神もまた人をそのようにして呼び寄せてくださる。

「また,あなた方​は​自分​を​神聖​に​し,聖​なる​者​と​なら​ね​ば​なら​ない。わたし​は​あなた方​の​神​エホバ​だ​から​で​ある。そして,わたし​の​法令​を​守っ​て​これ​を​行なわ​ね​ば​なら​ない。わたし​は​あなた方​を​神聖​に​し​て​いる​エホバ​で​ある。」レビ20:7

というわけでコロナ禍で年末年始に家でできること。
区別する力をよく働かせて不要な物は捨て必要なものは綺麗にして心も体も清く整えてコロナウイルス対策とコロナストレス対策を万全に。

すすきの穂が雲一片もない空を叩いている。

https://bit.ly/2INUPni

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