自然体に生きる方法は?

家族に対してコンプレックスがありました。
正直今もまだ乗り越え切れていません。
みんなでどこかに出かけた記憶もほとんどないし、
それどころか一家で食卓を囲んで食事をした記憶もありません。
家の中は冷たくどんよりした空気が漂っているか、
誰かの怒鳴り声や喧嘩の声が聞こえるかでした。

そんな家族と社会の間でもがいた経験と、
そのなかで学んだことを記録していけたらと思います。

社会と自分を取り巻く環境、
また社会と自分自身へのギャップで苦しんで
今少しづつ解放されつつある、私の体験談です。

まるく生きることにすべてを注いでいた学生時代

いわゆる「機能不全家族」に生まれた自分を認識しつつ
受け入れられていませんでした。
「私は、ふつうの子でいたい」という気持ちを強く持っていました。

とりあえず、ひたすら毎日「まるくふつうに生きる」がテーマで
どういう発言をしたら受け入れてもらえるか、
ふつうの子と捉えてもらえるかを常に考えて周囲に振舞っていました。

小学生までは、「ふつう=いい子」という方程式でしたが、
中学生の時に友人何人かで小学校時代の恩師に会いに行った際に、
「あなただれだっけ?」と言われたことをきっかけに、
いい子って印象に残らないんだということを知った私は
中学時代からは「少し大人を困らせる自分」も演じるようになり
それも含めて「まあるくふつうに生きる」ことに全集中していました。
まるで職人のように、まるく生きれているかを自分で自分を毎日のように
監視していました。

家では、外のような丸さは自分に課しませんでしたが
自分が家族に対して思っていることや感じていることは
一切言わずに過ごしてきました。
言ったら家族が壊れてしまうし、自分も崩れて生きていけなくなる
と思ったからです。
意識というか、本能でそうしていました。

社会に出てからぶつかった壁

学校という社会の中で私の描くまるは大いに活躍し、
先生にかわいがられ、友人関係も良好に過ごすことができました。

でも社会に出ると、それは通用しないと感じるようになります。
現代社会では多様な形が求められるからです。
むしろ歪んでいると周囲からみられていた人たちが活躍していたりして、
それはそれで喜ばしいことなんですが、
バランスよく丸く生きてきた自分は
必要とされていない感じがいつもどこかでしていました。

とはいっても、そのバランスの良さは一見認められ、
すぐ責任のあるポジションを用意されることは多かったのですが、
必死で自分を隠すためにバランスをとっているだけなので
そのようなポジションにつくと一気にバランス感覚を失ってしまいます。

「ふつうでいたい自分」は「必要とされたい自分」になり、
客観的に考えたら、無理をしていて心身を壊す状況なのに
耐え続け、そして頑張れば頑張るほど空回りします。

耐えながら、
あー自分なにしてんだろって。
おかしなことになっていることには気が付いていて、
今が自然体な自分でない違和感もあるのだけど、
幼いころから作り上げてきた心のまるは原型をとどめてなくて
本来の自分どこにいるかわからず苦しんでいました。
しかも、今まで作り上げてきた自分は社会で認められていない気がして
こんなんで生きていくなら死んだほうがましだと思いました。


「まあるくふつうに生きる」ことに徹してきた私ですが、
唯一取れなかった歪みが「死にたい」という感情でした。
母親が精神疾患で毎日のように浴びていた死にたいという感情は
現在も私の心の深くに横たわっています。
理由はあるのかもよくわからないけれど、
死にたいと幼少期から思っていました。
その気持ちは、抑えたくても抑えきれないときがあり、
実行してみたり、死にたいと周囲に漏らしたこともありました。


社会に出てからさらに死にたい感情が大きくなっていき、
周囲にぽろっと「どうしたら死ねるかな」とこぼしたとき、
社会からいったん離れてみてから考えてみることを提案され、
実際にそうしてみることにしました。

社会と自分をいったん切り離す

「必要とされたい自分」が社会と距離を置いて生活するのは
とても勇気がいることでした。
でも、私にとって自然体の自分に戻るための答えは
自己研鑽のマニュアル書やネットで情報を得たり
交友関係を広げていくことでもなく、
すべてをいったん崩すことでした。

今までやってきたこと、築き上げてきたものが崩れ去ったとき、
それは人生終わってしまうのではないかと思うくらいの恐怖とは裏腹に
あっけらかんとしたもので、案外なんともなくて、
逆に本来の心の輪郭が何となく浮かび上がってきたような気がしました。

そうやって考えると、私の人生は今までも、
何かが崩れ去ったときが私は一番自然体でいれていることに気付きました。

小学生の時拒食症になって入院したとき、大学を中退したとき、離婚したとき、前職をやめると決めたとき、会社を休職しているとき。。。

何かを失って身軽になったとき、入れ違いに何か大切なものに
感覚的に気付くことができるのかもしれない、と思いました。そう思うと失ったり傷ついたりすることは悪いことばかりでもないのかな。

そして過去の自分を抱きしめる

何かが崩れることが怖くて、
まるを描いていた学生時代に悔いは少しもありません。
悔いてもしょうがないし、そうしないと生きていけなかったんだと思う。

でもあのとき、本当の自分を理解してくれる場所や大人がいたら、
また違ったのかなあと思います。
だからそんな居場所を作ったり活動はしていきたいと思っています。


でもこれからは、自分をまるく見せることなく
「歪んでる部分があって当り前さ」って顔して生きていきたいな。
そしてなるべくもたなくていいものは持たずに身軽に生きていきたいです。

chiko.


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