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#41 ぶった切りボーダーライン

芸人になる前から地味に静かに続けているこのnoteだが、時々フォローしてくださる人がいる。
3年以上かけて、30人を超えた。
一般ウケするような話は何も書いていないのに、ありがたいことである。

そして最近、稀有なことに、わたしと同じ"名前が好き"という趣味を持つ方がフォローしてくださった。
同じ趣味の人はきっとどこかにいるだろうと思っていたが、実際に出会うのははじめてなので、とても驚いたし、すごく嬉しい。

その方の自己紹介を拝見したが、電車好きに撮り鉄や乗り鉄があるように、お名前好きにもいろんな方向性があるらしい。
でも名簿を片っ端から読んでいくのとか、本屋さんの名付け本を立ち読みするのとか、同じ部分もたくさんあるようだった。
いつか、お話ししてみたいものだ。




ということでさっそく、今日の本題に入ろう。
今回のテーマは、ぶった切り

ぶった切りとは、本来の漢字の読みの一部をぶった切って使用する読ませ方のことだ。
後ろ残しや中採り・中抜きなどさまざまなパターンがあるが、今回は最もシンプルで例の多い、頭の文字をぶった切るものについてのみ、触れていこうと思う。
詳しくは過去の記事(#2)を参照されたい。

わかりやすい例としては、「愛(あい)」を「愛(あ)」と読んだり、「心(こころ)」を「心(こ)」や「心(ここ)」と読んだりするものなどがある。

ぶった切りを使用する名前は、"キラキラネーム"などと呼ばれやすい傾向にある。
パッとは読めなくてもある程度の推測が可能で、読ませ方の根拠がわかりやすいため、"キラキラネーム"とされる名前の最も簡単な例として、扱われることが多いのだ。

しかし、ぶった切りを用いた名前をよく検証してみると、ぶった切りをしているのにも関わらず"キラキラネーム"と言われない名前が相当な数存在することに気づく。
ぶった切りであっても、誰もが自然に読むことができる名前が、たくさんあるのだ。

"キラキラネーム"などとというものはそもそも個々人の感性や判断に委ねられた曖昧なくくりであり、何を以てそう呼ぶのかなど確固たるルールはどこにもないのだが、ぶった切りネームは特に、輪郭がぼやけている。
"キラキラネーム"と"普通の名前"の境界線の不確かさが、顕著に表れていると思うのだ。

そんなわけで、今回はぶった切りについて、詳しく検証していきたい。


では、ぶった切りとしていちばん例に挙げられる「愛(あ)」問題について考えてみよう。

この読ませ方は間違いなく「アイ」という音読みのぶった切りであるのだが、本屋さんに売っている名付け本などを見ると、名乗り読みの欄に「あ」が載っている場合がある。
漢字辞典などには基本的に記載がないため正式なものではないが、それほどまでに一般に浸透した読ませ方なのだ。

「愛美(あみ)」「乃愛(のあ)」「真莉愛(まりあ)」「愛弓(あゆみ)」など、その例は枚挙にいとまがない。

このぶった切りは、「愛(あい)」の「あ」を採ったと言えるが、「い」を切り捨てたとも捉えられる。
「い」を切り捨てるタイプのぶった切りは、実は他にも多くの例がある。

(あや)  → 海=
里子(りこ) → 英=
(こと)  → 寧=
(さく)  → 来=
奈(な)   → 聖=
帆(ほ)   → 舞=
(り)   → 彩=
奈(な)   → 玲=

「愛(あ)」が女子名に多く見られるためこちらでも統一したが、上記はすべてぶった切りを用いた、「い」を切り捨てるタイプの名前である。
ぶった切りという印象を持つ名前は、いくつあるだろうか。

違和感を持つ/持たないも、読みにくさの程度も人それぞれ違うはずで、一概に線引きをすることはできない。だからここでも、ひとつひとつの名前についての詳しい言及は避けたい。

ただ、「愛(あ)」と全く同じ、「い」を切り捨てるタイプの読ませ方であるにも関わらず、
多くの人がパッと読むことができ、ぶった切りだという認識もほとんどされない名前が、確実に存在していると思う。

同じ構造なのに、一方は"キラキラネーム"と呼ばれて議論の対象にされ、もう一方は"ごく普通の名前"として扱われるこの現状が、わたしにはどうしても不思議だ。
その線引きがどこで、誰によって、どのようにされているのか。

「愛(あ)」という読ませ方が特別新しいものだったり、歴史が浅いということもない。
どのぶった切りも、日本の名付け文化のどこかで生まれて、時間をかけてゆっくりと広がっていったもののはずだ。
"「愛(あ)」=キラキラネーム"みたいなイメージだけがステレオタイプ化してしまったのは、どうしてなのだろう。


個々の名前には言及しないと言っておきながら書いてしまうが、英里子(えりこ)玲奈(れな)はなかでも特に読みやすく、"普通の名前"とされやすいのではないか。
これらの名前に違和感を抱かない理由を、次のように推測してみた。

「えい」や「れい」は「えー」「れー」などと伸ばして発音することができる音だ。
長母音とかなんとか呼ぶそうだが、そういう日本語の細かい話は一旦置いておいて。
もとの読みを「えー」や「れー」だと捉えれば、伸ばし棒を切り捨てているだけなので、あまりぶった切りという意識にはならない。
「あい」は「あー」にはならないので、そういった部分で多少差があるのかもしれない。


しかし、この仮説にも矛盾が生じる。
以下の名前たちを見てもらいたい。

春(はる)  → 幸=
良(ら)   → 蒼=
和子(わこ) → 桃=
実(み)   → 楓=
(ま)   → 央=
(み)   → 空=
花(か)   → 望=
衣(い)   → 優=

これらはすべて、「う」を切り捨てるタイプのぶった切りである。
どれも、「こー」や「ゆー」などと伸ばし棒にすることが可能な音だ。

ごく一般的に見られる名前と、そうではない名前が混在しているのではないか。
同じタイプではあるが、読みやすさには差が生まれているように感じる。
伸ばし棒を切り捨てるだけなら違和感を抱かず、誰もがパッと読むことができる。そんなふうに結論づけることは難しいようだ。

こうなってくるとますます、ぶった切りというものの立ち位置がわからなくなってしまう。
これまでに出てきた名前はすべて似通ったタイプのぶった切りネームなのに、なぜ違和感や読みにくさに差が出てしまうのか。
そしてどうしてこれほどパターンがあるなかで、「愛(あ)」だけが注目を浴びて、議論の的にされてしまったのだろう。


さて、このように実例を出していけばわかるとおり、ぶった切りとは、一般化している/していない、読みやすい/読みにくいの境界線が非常に曖昧なものだ。

漢字と読みが合っていない、つまり本来漢字が持つ音訓読みや名乗り読みなどとは違う読ませ方をする名前は、数多く存在する。
それらを許容するか、異端と見做すかは人それぞれの感覚によるもので、どれなら良くてどれは悪い、などと線引きすることはできない。
ただ、そういった名前は、パッと読みを推測しにくく、難読になっている場合が多い。
良し悪しはともかく、漢字と読みが合っていない=読みにくい、という公式はわりと多くの名前に当てはまる。

しかし、それに当てはまらないのが、ぶった切りなのだ。
ほとんどぶった切りであるという認識もされず、当たり前に浸透しているものもある。
ネットなどを見ていると、ぶった切りを用いた名前を「ぶった切りだから」という理由で批判する声もあるが、ほんとうは、そんな簡単に割り切れることではないはずなのだ。

「愛(あ)」問題だって、これだけを切り取って槍玉にあげるというのは、不思議な話だ。
ぶった切りについて考えるのなら、世の中に実在するぶった切りネームがどんなものなのかをきちんと把握し、理解することが大事だと思う。
「愛(あ)」を是とするのも非とするのも、それはひとりひとりの自由だ。
けれども、今回紹介したように、「愛(あ)」と同じ構成のぶった切りネームが、"普通の名前"という扱いをされながら多数存在していることを、忘れてはいけないだろう。


ところで、「愛(あ)」が議論の的にされてしまう理由について、ひとつ思いついたことがある。
それは、響きの問題だ。

「愛(あ)」は、名前の最後の文字として利用される場合が多い。
その例を、わたしが過去に集めた名前のなかからいくつか挙げてみたい。

結愛(ゆあ)      乃愛(のあ)
莉愛(りあ)      千愛(ちあ)
美愛(みあ)      斗愛(とあ)
心愛(ここあ)     玲愛(れいあ)
叶愛(かのあ)     遥愛(はるあ)
茉莉愛(まりあ)    璃々愛(りりあ)

響きに関してどう感じるかというのも、これまた個人の感性次第なので、なかなかはっきりとしたことを言うのは難しい。
しかしこれらの名前は、昔からあるものではなく、特に2000年代になって目立つようになった名前であろう(「まりあ」は他より歴史が長いと思われるが)。

現代の若者や子どもたちの名前としては、決して珍しいものではないし、極々一般的に見られる響きであることは間違いない。
ただ、今を生きるすべての世代からすると、これらの名前はまだまだ新しく、"イマドキ"や"キラキラネーム"とされてもおかしくないものだと考えられる。

「アイ」をぶった切って「あ」と読むことが、響きの新しさと相まって、余計に異質感を演出しているようにも感じる。
そのことが、他のぶった切りと比べて、「愛(あ)」が目立ってしまう要因になっているのかもしれない。

ただ、先程も言ったように、ぶった切りをどう捉えようが響きをどう感じようが自由であり、人それぞれ答えは変わる。
だからこそ、そのひとつひとつを◯と×に分けようなんて、不可能だと思うのだ。


今回取り上げたのは、ぶった切りとされるもののなかでもわかりやすく、単純な部類のぶった切りだ。
もっと複雑で、難読度の高いぶった切りだって、ほんとうにたくさんある。

このシンプルなぶった切りだけを見ても、読みやすさや浸透の仕方に、こんなに差が出てしまっている。
一口にぶった切りと言っても、その中身は千差万別で、ひとくくりに扱うことはできないのだ。


"キラキラネーム"と"普通の名前"の境界は、ひとりひとりの許容の範囲にすぎない。
だからこそ、ひとつの読ませ方が特にフューチャーされて議論されたり賛否を受けたりという状況が、わたしはどうにも、納得し難い。

ボーダーラインなんてものは常に曖昧で、グラデーションになっているのが当然だ。しかも、ひとりひとりの感じ方によって、違う。
ぶった切りだからどうとか、そんなふうに簡単に是非を決められるものではないのだろう。


どんな読ませ方でも、その名前が実在している以上、もうそれは良いとか悪いとかじゃなく、"キラキラネーム"か否かとかじゃなく、ただそこにある名前、なのだ。

これまでさまざまなぶった切りや読ませ方が生み出されてきたように、これからもいろいろな名前が現れていくだろう。
そういった日本の名付けという文化を、許容や批判とは違ったかたちで、わたしはただ、見ていたい。

とにかく、多種多様な名前を知ることが大好きなので、それを続けていけたらいい。
とまあ、こんな感じのまとめで、今日の記事を締めくくろうと思う。


それでは、また次回。





※上記の名前は、誰でも閲覧可能なネット上に載っていた名前です。

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