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第3章 大切なカフェを手放した訳

焼きたてのパンを持って行くたびに両親の笑顔が嬉しかったなぁ。

夕方になると🎶

「ごめ〜ん🎶くぅ〜だっさぁ〜〜〜いっ🎶」

と楽しそうに母がおやつパンを取りに来ました。

毎日見ても飽きない程、両親の笑顔は私の癒しでした。(笑)その理由が問題なんですよねぇ〜私の場合🤔ふむ🤔

朝一番にお父さんの居る居間に…
そして、道を挟んだ向かいのお母さんのいる山菜弁当の作業場🍱に…熱々をそれぞれ届けていました。

どうしても「平等にこだわり」それぞれの居場所へ持っていく順番は毎日交互でした。
(そんなに細かいところまで?)🤗そう!私の想い出からのこだわりになって行った個性の1つだったのです♪

私の記憶での🎶
兄弟間での(不平等)から、とてつもなく(平等にこだわる)生き方になっていくんですよね〜🎶

外から眺めていた(弟)が大人になって話してくれました。
「同じ事をしても、どうして姉ちゃんだけあんなに怒鳴られるんだろうって、本当に疑問だったよー」笑笑
そう!( ˘ω˘ )これなんですよ。

その言葉を聞く度に
「だよねえ〜気のせいなんかじゃないよねえ〜」😮‍💨
明るくいつもの私らしく?笑い飛ばしながらも心はこんな顔を隠していました。😮‍💨

だからこそパンを届ける私の中に、(認められたい気持ち)が強くあったと思います。
今、冷静に思い出して見つめた時、母が喜ぶ度に心の中で語り掛けていたように思います。

「お母さん達を私はこんなに大切にできるよ!みんな平等にできるんだよ〜」

その思いのもっと奥底は、きっとこう!いう風に毒ついてたかも🤪

(お母さんが不平等で冷たかったけど!私は優しいから…)みたいな?
アピがすごくて我ながら笑っちゃいます。
わHAHAHA🤣

オマケにね(* ̄m ̄)プッ

少しお客様が多い日は(お金が増えた💸あぴ)
それも「金食い虫」と言われた記憶の投影。母に言いたいことを遠回しに繰り返していただけだと気づいております。

パンを届ける私の心の底にもう1つ、深い思いがありました。

小学生の頃の記憶で両親の(オシドリ夫婦)のような仲の良い姿を尊敬していました。
しかし……いつの頃からか…母から笑顔が消え言葉の端ばしが遂げるようになりました。
理由は分かりません…。

私は2人が元の屈託のない笑顔で顔を見合せ笑う姿を、もう一度見たかったのだと思います。

(母から笑顔が消えた根底に、私の存在が原因だと思っていたようにおもいます💧自分の存在自体を否定していた感じですね。)


話は変わります。

カフェは新築なのに日々、気持ちが変化する度にその気持ちの赴くママに作り直すので、日を追う事にどんどん改装されていきます。

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小さい頃、大工さんの(叔父)の事を尊敬し本気で大工になりたかった頃がありました。

母に話すと尽く却下😢(時代背景ですね)諦め気を取り直し幼少期から、部屋の模様替え、小物の工作をず〜っと繰り返し(遊び)にしてきました。

皆さんは(できるかな)と言う番組を見たことがあるでしょうか〜🎶
(ノッポさん)が出てきて色んな面白い工作をします。
想像力を発揮してダンボールと、ハサミで作っていくのです。

夢中で見ていました。見様見真似でダンボールで、家を作ります。本物さながらの模型を作れる様になっていきました。

いつしか、それがリノベーションへと転換されていってたことにも、「ネガティブMAXの方に目がいっているので」50年近くも気づかずに来たのですね。5日ではないですよ🎶5週間でも無く、5年でもなく……爆笑😂😂です。
「おバカさん」…(* ´ ˘ ` *)

「これが最後の答えの一端になるなど思いもしていません。」お気に入りの空間になり、鼻歌を歌いながら毎日想像力と、インスピレーションで焼いています。

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洋楽の鼻歌は……(全くのデタラメ英語🤪なのに!さも、まともな英語かのように大声で歌う私を)笑顔で眺める母…。

(私の存在は、無駄ではなかったはず!必要とされてる!愛されているはず!)
時折、母の友人達がお茶飲みにワイワイきてくれる日々が幸せでした…。
やっぱり!実は!愛されていたのか……!

私がこの土地に帰ってきて良かったんだ…と、嬉しく思う日々…

は…長くは続きませんでした。

人は…幸せを感じることが多くなると、他の幸せをも、もっと叶えたくなるのでしょうか……。

幸せなはずなのに、それ以上を望み始めたのです。

両親に、元の仲良しに戻って欲しい…。
願いが大きくなるに連れ、ささいなことにも敏感に気になるようになるものですよね…。

半年が経った「冬」

ある日父が山で火傷を負いました。

大したことはないというが……
言葉の少なくなってしまった父…そんなに幅広くやけどしているとは!両足だとは思ってもいませんでした。

母は、相変わらずバタバタと弁当を作り忙しさから重大なことが起きている事に気づいていません。
この日、夫婦の些細なハプニングの結果、腹を立てての出来事だったと後で分かります。

聞けば山の上でゴミを燃やしていて自分のズボンに引火したらしいのです。

何時も人に心配をかけたくないが故に、1人で解決しようとする父。
どうにかしようとしたらしく、何か、クリームのようなものを塗り、あろうことか!火傷をしているのに掘りごたつにずっと入っていたらしいのです。
それも半日……。冷やさなければならないのに!ジリジリ痛かったはずなんですよね。我慢強いも限界があるはずなんですが💦

事態はそこから、とんでもない事になっていきます。
母に、お勧めの病院を指定しました。

なのに!なのにですよ!なんと(゚o゚;
母は、その病院でないところに黙って連れて行ったようでした。

(この辺りから、母への不信感が強くなっていきます。)

なんと!入院、手術になると言うではありませんか!

驚きましたΣ(艸・∀・)ェェエエエエ工━!!

70歳を超えている父親に、移植手術をすると言うお医者様。
丁寧にお断りしました。

「皮膚のひきつれが多少あっても、若い女性でも無いですから全身麻酔よりもそのままの縫合の方がリスクも少ないと思います。」と。

しかしです…。
۳( ̥O▵O ̥)!!
手術室から出て来た父は全身麻酔をし、お尻の皮膚を取り皮膚移植を行い眠って出て来ました。

(麻酔の同意書も無く行われた?!何故?!)説明もありませんでした。
そこからです。

父が豹変していきます…。きっと…私と同じで、父は何が起きたのか、しっかりわかっていたのだと思います。

父は、何が何でも退院しようとしました。
無理な退院後の、病院の紹介であった町のお医者さんの処置も酷く…症状もどんどん悪化するばかり。
流石に納得が行かず、母を説得し病院を変えました。

転院した病院で、ことの成り行きと症状をお伝えしました。
転院した病院の先生は、我が家に何が起こったのか、誰が!何をしたのか!ご存知の範囲であったようで、丁寧に(これから先、引き続き責任を持って処置をさせていただきます)と言う旨の文面の手紙を、手術をした医師に当ててくださいました。

この事は、忘れられない心温まる出来事でした。その先生に出逢い、みるみる父は回復しました。
が…手遅れで、後遺症は大きく残りました。
足はひどく腫れ浮腫、紫色に膿みました。

リハビリをする父を見て悔しくてたまりませんでした。
それでも、良い悪いの判断だけで権力のある人に向かっても勝ち目は無い!(醜いアヒルの娘)の沢山の失敗と経験から、既に病院に向かう勇気などありませんでした。

なんだか本当に惨めでした。

あれ程、活発に動いて来た父が日を追うごとに動かなくなっていきました。

足の浮腫もまるで赤ちゃんの像さんの足と思う程の色と大きさになっていきます。
アロマでケアをしても追いつきません。このままだと、また、脳梗塞になるのでは無いか…と、不安が募ります。

「お父さん!動いた方がいいよ〜🎶」

「ラジオ体操なんかいいんじゃない?タオルでストレッチとかさ〜🎶」

「雑巾で床ふきもいいらしいよ〜🎶」

どうにかして父の身体を動かしたかったですね。

大切な父を放ったらかしてばかり!母自身の小指も仕事のし過ぎで逆方向に折れ曲がって、見るだけで痛々しく、それでも弁当を作り続けている母へのモヤモヤが、ある日心の中で爆発しました。

その爆発は…2人の両親それぞれへの、深い思いからでした。
本音は…2人にゆっくりして欲しかっただけ…
ずっと2人に元気でいて欲しかっただけ…

母は疲れているだけで、忙しくなければ昔のように優しい女性に戻る気がしてました。

一生懸命、丁寧に伝えたつもりでした。

「全部!私が悪いと?!」と母は怒り、泣きました。

そんな事は言っていないと、何度言っても私の気持ちは全く伝わりません。
その夜…母は、家出をしました。(一泊のプチ家出ですが^^;)

その時1番辛かったのは、父親の行動でした。

母を心配してずっ……っと…眠れず、ご飯も口にせず…一晩を過ごしていました。

次の日…父は、私を睨みました。口も聞いてくれません。

こっわあ〜い顔をして、歩いていきます。

何故?…😢
「2人の仲をとりもとうとしたのに、どうしてお母さんは家を出て、お父さんは私に腹を立ててるの?分からない…分からない…」

それっきり、長い事父は目を合わせてくれないまま。

焼き立てのパンも…持っていく数がぐっと減り、そっとテーブルの上に置くことの方が多くなりました。😢

あの頃は全く訳がわかりませんでした。
しかし。
今、気付いていることは(私がまたもや闇を呼び寄せただけの事だと思います…。🤪)

追い討ちをかけるかのようなハプニングが始まります。

ひょんな事がきっかけで地区の中学校の部活の(トレーナー)を引き受ける事に…。

いちいち目の前に来る人の哀しみを自分事としてフォーカスしてしまう!
私の特性が大きなハプニングに繋がって来ただけなんだと言うことを今は理解できています。🤪(ほんのちょっとの気け違いなだけ!)笑

1人の少年を引き取る事になってしまいます。(この内容はずっと後にお話しします。)
その、少年の父親との出来事が追い討ちをかけることとなり、お店に全く人が訪れなくなりました。

女1人…4人の子供を抱えて(実の子供3人+家出少年1人)カフェのお客様が絶えてしまっては生活できるわけがありません。

(閑古鳥のなくカフェ)を後に、離れた街までパンを売りにいく事にしました。

完売しても8000円ほどの日当。到底、追いつきません。
カフェの家賃をどうしようか…一人で考えていました。

そこに!追い討ちをかけるかのように、隣のお爺さんが犬を巡っての、嫌がらせに近い繰り返しが酷くなります。
怯える娘の顔を見る度、怒りが溜まっていきました。
なにかの不安からか、我が家の犬二匹も無駄吠えが、エスカレートしていきました。

ある日…私たちが留守だと思ったようで、散歩を装い犬への攻撃をお爺さんがはじめます。
驚きました。直接目撃したので、やめて貰えるよう話に行きました。

その夕方…あろうことか母親の弁当屋さんに来て文句を言ってるではありませんか!母は、大泣きして震えています。

次の日です……
母は、弁当を作りながら言いました。

「あんたは…爆弾のようだわ…」

…………私?

長い、長い…時の止まった時間。記憶が消えていました。

私…何か悪いことした?

どうして私のする事は、そうなる?

私は…ダメな子?

何もしちゃいないよね?なのに何故こうなる?

私は私が見えていないの?………

やっぱり私の居場所はない?


お客さんも来ない。
パンも売れない。
このままだと、家族みんなひやがってしまう…。
何とかしないと…
何とかしないと…
考えました…

不安に駆られてる場合じゃない!お金の計算しないと!何やってんの!私はお母さんでしょ?頑張るしかないよね!

じーっと
考えました。

とにかく!
お父さんの力を借りた大切な家!宝物!なんて言ってられない!
子供を守らないと!借金!家の家賃!を消さなければ!!
出るしかない……。
こんな田舎で信用なくして生きていけるわけがなかった。
ことが鎮まるまで待つなんて悠長な事をしてる余裕なんてない……。
出るしかない……!

私の思いを気づいたのでしょうか?末の息子が言ったんです。
「高い山の上で暮らしてみたい。背が伸びる気がする…」
プラス1の少年も言った。
「お父さんの見えない所でやり直したい」

「分かりました✨出よう!」

「神様が、「正解」と言うなら、今年いっぱいまであと2ヶ月。その間に家が売れたら、そうしなさいってことなはず!荷物をダンボールに詰めよう!
お空が応援してくれているなら、そうなるはず!!」

ここまで追い詰められると不思議に(神頼み的に陥りやすい💦)3人で荷物をダンボールに詰めました。11月中旬でした。

2週間後、不動産から、連絡が来ました。
「家が売れましたよ🎶」

「行こう!熊本に!」



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