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震災"伝承"ということ

(共有用のメモ書きなので、読みやすさ無視の長文で失礼します。)
(写真は大好きな野蒜海岸)


10年目を迎えた昨年頃から、震災の”伝承”ということを再度すごく考えるようになった。

“伝承”にもたくさんあると思う
大切なひとを亡くした方にとっての”伝承”
大切な家や故郷が波にのまれた方にとっての”伝承”
大切な人たちの痛みにふれた方にとっての”伝承”

ひとりひとり、それぞれにとってのあの日、あのできごとがあって
忘れたくないこと、忘れたいこと、残したいこと、しまっておきたいこと、伝えていきたいこと、
それぞれ、たくさんある

11年という月日
いま、よく耳にするのは
地震や津波のおそろしさ、防災の大切さ、希望の物語…
全部とてもとても大切だけど
私があのできごとを通して考えていきたいことはそれだけではない

私にとってのあのできごととは
私にとっての、"伝承"とは
まだまだわからないけれど


”生きる”ことを見つめること


被災された、大切な人を亡くされた、大切なばしょを失った、ボランティアで現地を訪れた、画面越しにあのできごとにふれた、なにもできなかった…
痛みの大小を比較するものじゃなく
ひとりひとりが、それぞれ確かに痛みを感じていたということ

“復興”とか”希望”とか、”頑張れ”とか”乗り越える”ということばでくくれない
ひとりひとりの歩み
痛みや苦しみ、悲しみといっしょに生きていくということ

“よりそう”ということばでくくれない
わかりあえないこと、それでも想像すること、祈ること
よりそえないと知りながらよりそおうとすること、よりそいたいと願いうこと
ひとがひとの痛みと生きていくということ


あの日、牙をむいた自然
それでも、自然に生かされ自然と生きていくということ

幸せとは、希望とは
たくさんの喪失と、のこったもの、生まれたもの


そんな一つ一つのことを、ひとりひとりが、ぎゅっと大切に考えていけたらと願う


***


11年を経て、最近改めて東北や震災のことを強く意識するようになった

これまで、自分の立場にどこかやっぱり引け目(というのも違う気がするけれど)はあったのかもしれない
たくさんの人が震災後の東北に入ってくる中で、大学進学に伴い東北を離れた
たくさん葛藤はあったし、それでも学びたいことがあって、自分の人生を生きるのだと
ボランティア先のおじいちゃんにも背中を押されて自分の意思で関東に出た

同じ仙台だけど、津波を見てもいないし揺れでの建物の被害にも遭っていない
家族や親せきや親しい人はみんな無事だった
部活の後輩が一人亡くなった
日常ではなかったけれど、確かに思い出があった場所が、変わり果てた姿になっていた

数年は長期休みのたびに東北に戻り、毎日津波の被災地に通いながら
通うことに、そこで日々感じることを都度消化することで精いっぱいだった

仙台沿岸の津波被害を分けた東部道路を
無事だった”こっち側”から津波が到達した”あっち側”にくぐり(嫌な言い方だけれども、当時感じていた事なのでそのままの言葉にする)
活動を終えて毎日”あっち側”から”こっち側”に戻るたび
何とも言えない痛みを感じていた

何年かたってようやく、自分の中にある痛みも、ひとりひとりそれぞれにある痛みも認められるようになったけれど
何かを伝えたい、残したい、関わりたいともがきながら
”こっち側”の人間で、東北を離れた自分の立場に
“伝承”に関わることを諦めていた部分もあったように思う

大学院進学、三重での就職と自分のライフステージも変化し
関わっていたボランティア団体も活動を変化縮小させていく中で
自分の震災とのかかわりは徐々に薄くなっていた

そんな中、2019年から2年は仕事の関係で初めて3.11を仙台以外で過ごした。
3.11について、東北以外で子どもたちに話す機会にまたあの出来事をみつめ
自分のあのできごとへの想いがまた少しくっきりしていった

同時に、ひとの痛みに向き合うことが増えた
ひとの痛みにふれ、よりそうってなんだと考える時
私は震災ボランティアのことを思い出す

2021年、節目とか区切りなんて言いたくないし、特別にはしたくないけど
でもやっぱり大切に想いたいタイミングで、
友人たちを東北に誘って、私が感じた震災を伝え一緒にいろんなことを感じ分かち合いながら被災地をまわった
震災のことの中に、この地に、
やっぱりどうしても感じてほしい大切な何かが、伝えていきたい何かがある
改めてそう思った


***


私なんかが…という想いはまだぬぐえないけど
でもだからこそ、ひとりひとりにとってのあのできごとを
ひとりひとりにとっての痛みを
ひとりひとりにとっての問いを大切にして、何かできないかともがいていきたい

東日本大震災という一つのできごとの中に
ひとりひとりにとってのあのできごとがあったということ
11年が過ぎたいま
そんなひとりひとりにとってのあの出来事の中にある大切な何かを
大切にしていけたらと願う





Cf. わたしと震災

*3.11
当時は仙台市青葉区在住、高校卒業後の18歳。津波が来た地域からは10数キロ。電気3日、水道7日、ガス3週間のインフラ被害だけ。

*発災後1週間
近所のお年寄りの方の給水のお手伝いなど
1週間後くらいから震災後にできた民間団体にて、救援物資の仕分けや、市内のお年寄りの地震後の片づけのお手伝いなど。

*3.24
震災後初めて仙台市若林区の津波の被災地域に入る。
その後七ヶ浜地域での救援物資のニーズ聞き取りなどを経て
3月末から仙台市若林区荒井笹屋敷地域でボランティア活動をさせていただく。当初は泥出しや流れ着いたものの片づけなど。夏ごろから徐々に畑の復旧やビニールハウスの再建などに移る。

*2011.5
大学進学のため関東に移る。以後1,2年目は、長期休みは帰省しほぼ毎日被災地域に通わせていただく。
大学で出会った友人にも声をかけ、10数人が仙台を訪れ一緒に活動し、東京でも震災ボランティアを振り返り想いをよせる集まりを開催。
2012.9頃からは時折、活動以外で東松島市野蒜地区を訪れる。親戚の墓が近くよく通った野蒜海岸、高校の部活の研修で訪れた思い出の施設、部活の後輩が一人亡くなった場所。私にとって震災前の記憶が一番多い場所。

*2019.3.11
初めて東北以外で3.11を過ごす。三重県にて職場のスタッフ、子どもたちに震災の話し
*2021.2~7
3回に分けて関東、関西の友人計8名に、仙台市沿岸、東松島市など私にとっての震災を案内する企画を実施
*2021.3狛江市の小学校の朝会で震災について話し
 それぞれにとってのあのできごとを語る場づくり


■10年目に行った場づくりの詳細
いま、それぞれの3.11@オンライン/上北沢
 10年前の3月、皆さんは、どこで、何を感じましたか。被災された方、現地に入った方、報道を見た方… ひとりひとりの心が動き、ゆらいだあの時。痛みや苦しさ、心の振動、絶望や希望、冷たさやあたたかさ…。ひとりひとり、それぞれにとっての3.11は一色じゃない。10年、もそれぞれ。区切りにしたいのもしないのも、あのことを想うのもいまは向き合わないのも、話したいのも話したくないのも。
ひとりひとりの感情、想いに正解も不正解も、優劣もない。だから、そっと、それぞれにとっての3.11を、分かち合えたら嬉しいです。 
*大切にしたいこと ・わたしと、あなたをいたわる ・場のための個じゃない
・話すも、沈黙も、聴くも、表現 ・まとまらなくてもだいじょうぶ ・想いで水平なつながりを  


■10年目に行った東北旅の詳細

このコロナの状況の中、すごく迷いもあるのですが
この3月で震災から10年。地元仙台で18のときにあった震災は私にとってすごく大きくて。悲しみも苦しみも、そこでの出会いもいまの自分の生き方にすごく大きく響いています。
皆さんにとっても、きっとそれぞれいろんな痛みや想いがあられるかと思います(自分の想いが強くてそこに配慮できていない文章になってたらごめんなさい)

10年というタイミングを、特別にしたくはない
でも、いま思い出す機会も減っていて追悼式なども今年どうなるかわからない
“忘れてはいけない”というのはすごく難しいし
誰にとっても、あのことを思い出すことは痛みを伴うことだと思います

けど、生きるってなんだ、豊かさってなんだ
弱さとか痛みといっしょに生きていくってどういうことなんだ
そういう大切なことがたくさんつまっている気がするからこそ、やっぱりこの10年というタイミングで、私はもう一回見つめたいなぁと思っていて。そんなことを、私にとって大切なみなさんと、一緒に考えたいと思って


一番やりたいのはU30の、私を入れて3~5人の少人数で、一緒に東北(宮城、岩手を予定)に行きたい。コロナの中でいまやるべきなのかという思いもありつつ、それでもやっぱり、特別にはしたくないけど、この10年というタイミングにも何か意味がある気がして。少人数でもちろん最大限の警戒をしつつ、訪れて、一緒にひとのいたみや、いのちを生きることを感じ考えたい
宣言が解除されても安心とは思っていないし、またすぐ悪化する可能性もあるので、もちろん最大限の警戒をしつつですが、自分のなかではやっぱりいまという想いがあり、そんなことを考えています

そしてもちろんお仕事柄やその他いろんな事情で、コロナもあっていまは訪れられない方も多いかと思います。現地には行けないけど一緒に考えてみたいと思ってくださる方とも、オンラインでなり東京でなり、何かしらの形で想いを分かち合うことができたらと思っていますので、そんな方も連絡もらえたら嬉しいです!

・行き先:私にとっての3.11が伝えられるばしょ(仙台荒浜地域、荒浜小学校、3.11メモリアル交流館、旧野蒜駅、野蒜海岸…)
宮城県内各所の震災遺構など(石巻日和山、大川小学校、南三陸さんさん商店街、旧気仙沼向洋高校…)参加者と相談の上
(その他詳細はここでは割愛)

*いまも震災の話しにいたみをおぼえる方、向き合うのが怖いという方、様々な方がいらっしゃると思います。このお知らせがそういったそれぞれのお気持ちに配慮できていなかったらごめんなさい。私なんかが言うまでもないけど、訪れるも訪れないも、向き合うも向き合わないも尊いことだと思っています。向き合えないっていう怖さも、向き合いたくない気持ちも、いまじゃないっていう感覚も全部尊くて、どうぞ無理なくいて下さったら嬉しいです。

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