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ADHDの頭の中(家族との関係1)

わたしは小5で家出をして東京に出てきた。
家出といっても祖父母の協力を得ているので、厳密に言えば家出とは言えないのかもしれない。とは言え、この行動についてはその前後のことを説明しなければいけないだろう。

両親の不仲

いじめのところでも書いているが、小学校に入学してから(多分)徐々に両親の夫婦仲は悪くなっていった。夫婦仲が悪くなるとともに父が家にいる時間が短くなった。
幼稚園くらいの頃までは、父に連れ出されて週末に出かけることも多かったが、小学校に入ってからは父との外出は少なくなった。

ただ、両親の顔色を伺うなんてことは、そういう『空気読み』の苦手なわたしが小さな頃から出来るわけでもなく、ただひたすら自分の好きなことに熱中するわたしには、夫婦仲がいつから悪かったのかなんてことは、よくわからない。
ただ、家に居る時間の少ない父との距離は、小さい頃から会ったのだと思う。

給料だけで生活できなかったわけではないと思うが、家や車のローンがある上に、父は社交ダンスにはまっており、それを賄うためにアルバイトもしていたようだ。
父は公立高校の教師をしていたため通常のアルバイトは出来ないが、申請をして市内の定時制高校や私立の女子校で講師をしていた。定時制で仕事をするようになれば、帰宅時間は遅くなり、子供と顔を合わせる時間は少なくなっていた。

母は、わたしが生まれる前までは小学校で教員をしており、わたしが生まれて産休があけてからしばらくは教師を続けていた。母が教師をやめるまでの間は祖父母のところに預けられていたため、わたしは乳児期の数ヶ月を祖父母のところで過ごしたことになる。

わたしは小さな頃のこともわりとよく憶えている方だと思うが、当然ながらその(預けられていた)記憶はない。ただ、一番古いはっきりした記憶は、祖父母の家で階段を転げ落ち、額に怪我を負ったことだ。
当時、わたしは2歳だった。自宅は平屋で階段がなかったため、おばあちゃんの家の階段が面白く、メタペタと手を使いながら何度も上ったり降りたりしていた。何度目かに階段の一番上にたどり着いたとき、四つ足から二足歩行に戻ったわたしは、バランスを崩して後ろにひっくり返った。

ごろごろごろごろっ

何回も回転しながらわたしは階段を落ちていった。

このときのことは何度も夢に見て、スローモーションを見るように記憶の中で何回も繰り返されている。途中にある梁や柱につかまろうと手を伸ばしても、小さな手はそこにとどかない。回転して落ちる自分の体を止められない。そんな夢を何度も見た。

実際、転がり落ちている途中では、体が柔らかかったためか怪我はしていなかったのだ。
しかし、階段の下にぶつかってはいけないものが置いてあった・・・。

自宅では暖房器具は石油ストーブだったが祖父母の家は古い石炭ストーブだった。階段の下には勝手口があり、そこには石炭箱と石炭を掬うためのスコップがあった。

ゴツッ・・・

鈍い音がしてわたしの体は止まった。

実は、痛かったかどうかは憶えていない。傷を負ったのは右眉のあたりだった。呆然と見回すとボタボタと落ちた血であたりが赤く染まっていくのをみて、怖くなって
「ギャーーー!!!」
と、鳴き声をあげた・・・ここまでが、何度も繰り返し見た夢の内容だ。

そこからのことは少し記憶が残っている。母と祖母が血相を変えて泣き叫ぶわたしの様子を見に来たのだが、祖母があわてて外に車を拾いに行き、その車で近くの総合病院につれていかれた。
車の中では額をタオルかなにかで抑えられていたが、それが替えても替えても血で真っ赤になってしまったことや、診察を待っている大人たちを押しのけて一番に診てもらったこと。(まあ、小さな子どもが額からダラダラ血を流していれば当然か・・・)
どういうわけか、病院の天井が有孔ボードみたいな規則正しい穴のあいた素材だったなんてどうでもいいことが、はっきり記憶に残っている。

そのときのことをそれほど鮮明に憶えているのに、その病院に行ったあとの記憶が全くないどころか、それから1年以上の記憶がすっぽり抜けてしまっている。
ただ、ひとつだけうっすら憶えているのが、隣の家の子がお見舞いがてら遊びに来てくれたのに、母が「怪我をしているからごめんね」といって家に入れなかったこと。そのシーンではわたしは頭を包帯でぐるぐる巻きにされていた。それだけ。

当時高校生だった叔母(母の妹)は、帰宅したら家に誰もおらず、勝手口が血まみれで放置されていたため、強盗が入って誰か刺されたのだと思って青くなったそうだ。

だが、わたしは実は、この頃から父と母の不仲は始まっていたのではないかと思っている。

わたし階段を落ちたそのとき、母は頭痛のため2階で寝ており、祖母は1階で針仕事(着物を縫う内職)をしていた。大人が2人もいて小さな子供から目離しをして大怪我をさせたことを、あの父が責めないはずがない。
事実、その怪我のあと、父と家で会話をした記憶がほとんどない。
帰りが遅いだけでなく、休日も家を出ていたのだろう。

家で専業主婦をしている母の姿は、わたしの記憶にはほとんどない。
小さい頃の記憶は自宅より祖父母の家の方が多い。
もし、家にいる時間が長ければ、家にある本なんてもっと早くに読み終わっていただろう。
わたしが小学校を越境入学したのが、母の実家である祖父母の家であったことも、それ以前に夫婦間の関係が悪化していたからかもしれない。実際、父と祖父母との関係はあまり良いと言えるものではなかった。学校にいくためわたしを祖父母の家に送ったときも、父が車から降りたり、祖父母に挨拶したことは無かった。

長くなりそうなので続きます

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