オタクが「オタク」を辞める?
昔、「げんしけん」という漫画作品の主要キャラでとあるセリフがあった。
「オタクにはなろうと思ってなるもんじゃねー
気がついたらなってるから辞めることもできねー」
このセリフは自分にとってしっくり来てるものであり、自分の考える『オタク』によく合致してると考えていた。
いつの日か以下のような疑問を感じたことがある。
今答えるならコレだ。
・それに『陥る人』ってどんな人間?
⇒凝り性、それにより何某かのリターンを得ることに幸福を憶える者
・ならオタクを辞めるとはどういうこと?
⇒『オタク』のつもりだった人間が、それを嗜む精神的な余裕が無くなったので真人間に還ること。
『オタクを辞めていく人たちを見るのが悔しい』という記事があるようなので読んでみたが、どうにも違和感を憶える。
ただ社会人になってから趣味を楽しめる余裕が無くなった、だから切り捨てただけとしか感じなかった。
はて、そういう人間は『オタク』なのだろうか?そもそもの疑問はそこだ。どうにも、自分の考える『オタク』と世間で考える『オタク』はどうも違う。
正直に言うと、今世間で言う『オタク』というのは
アニメ・ゲーム・アイドルが好きな人
程度の印象しかない。本当にただ嗜む趣味に毛が生えた程度、その先は?というのが無い気がする。別にそれをバカにするわけじゃない、そういう楽しみ方だってあるだろう。
ただ何か『熱意』というものが無い、何かそれを媒介にして友人なり仲間を作るツールとして『オタク』を利用してるだけじゃないか?
結婚して家庭を持つだの、学生から社会人になるだの、『オタク』的趣味に費やす精神的な余裕を奪われる。
『オタクを辞める』という言葉というのは、それらをする必要が無くなり不要になった、またやる暇が無くなり離れざるを得なくなった・・・それだけのような気がする。
だが私からすれば、その程度のことで切り捨てられる位軽々しい程度の扱いだったんだなと・・・そう感じざるを得ない。
私の考える『オタク』とは、生き様だ。
自分が『熱意』と言ったのは、そもそも自分の考えるオタクの定義は
『趣味や好きなことに対し勉強・労力・時間・カネをつぎ込むことを惜しまない熱狂的趣味人』
としているから。
誰かに褒められるから?誰かに注目されて交友を持てるから?
そんなもの端っから期待してない。
ただ自分がどう幸せになれるか?を探求、ひたすら没頭することで、何某かのリターンを得て幸福を感じる。それが癖になるから辞める事なんてありえない。
だが世間は、その必死さはウケないらしく、ただファッション的に嗜むことがモテることに繋がるらしい・・・いやぁ安っぽくなったもんだな。その必死さは嘲笑われ『キモい』という言葉で世間から拒絶されたままなのだ。
オタクが市民権を得た?冗談じゃない。そう見えるのは『オタク』のフリをした紛い物が世間でウケただけだ。『キモい』存在は今でも『キモい』ままなんだ。
そんな自分の抱く『オタク』観で、それでも辞める時が来るかもしれない。
でもなぜ辞めるかなんて本人は判らないだろう、『気がついたらなってるから辞めることもできね』んだから。