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「難民キャンプで生まれ、一生を難民として過ごすこと」 アーデルさんからのメッセージ

こちらの記事は、今もヨルダンの首都アンマンにあるバカア難民キャンプに住んでいるアーデルさんからのメッセージを翻訳したものです。アデルおじさんは、ご両親がナクバで避難してから4世代に渡って難民でい続けています。なるべくアーデルさんの意向に添えるように翻訳し、より伝わりやすくするために一部注釈をつけさせていただきました。
アデルさんの歴史や、難民でい続けること、故郷への想いをぜひ目にしてください。

文・Adel/アーデル(バカア在住・パレスチナ人)

「アッサラームアレイクム(アラビア語の挨拶で、直訳すると「神の慈悲と祝福があらんことを」)

私は生まれながらのパレスチナ難民、アーデル・ハムダンで、両親と祖父母はラムレ地区のサラファン・アル・アマル村の出身です。

私の祖父母、母、父は、1948年にシオニストの一団が私たちの村を攻撃した結果、家を追われ、命の危険を感じながら、持っていたものすべてを置いて出て行きました...。

彼らはラムレからエリコに避難し、そこでテントが用意され、アクバト・ジャブル・キャンプに住んだ。

パレスチナのサラファン・アル・アマル村から、アクバト・ジャブル・キャンプへ

ここで私と何人かの兄弟姉妹が生まれ、1967年までキャンプに滞在した。

イスラエルがヨルダン川西岸地区を攻撃・占領し、何千人もの難民をヨルダン、シリア、レバノンに強制送還しました。私たちはヨルダンまで歩いたが、イスラエル軍の爆撃があり、多くの難民が殉教(注1)したことを覚えている......。
(注1:ここで使われている「殉教」とは、「より良い状況になるため、自分の命を犠牲にしてまで頑張った結果亡くなった」という意味です。例えば、ガザに留まって亡くなった人を「殉教者」と呼びます。ただ犠牲になったというだけでなく、ガザから逃げ出さず、自分たちの土地を守るために頑張った結果亡くなった人々を尊敬し、尊重し、労う意味をこめてこのように呼びます。)

そしてまた、私たちはすべてを失った。

アクバト・ジャブル・キャンプが攻撃され、歩いて、ヨルダン渓谷のアルカラマ・キャンプへ

1968年、私たちはヨルダン渓谷のアルカラマ・キャンプに住んでいました。アルカラマ・キャンプはヨルダンのパレスチナ国境に設けられたキャンプのひとつです。

しかし3度目の「カラマ」と呼ばれている戦争で、イスラエルは国境にあるすべてのキャンプを攻撃し、私たちはヨルダン最大の難民キャンプであるバカアキャンプに移らざるを得なくなった。このキャンプは今も時代を証言するものとして残っており、私は生まれてから老いるまで難民キャンプで暮らしています。

アルカラマ・キャンプも攻撃され、ヨルダンの首都アンマンのバカアキャンプへ


難民キャンプで生まれ、一生を難民として過ごすことを想像してみてほしい。私、私の家族、妻、息子たち、娘たち、そして孫たちは皆、この苦い現実を生きている。

私は63歳で、2人の息子、4人の娘、13人の孫がいます。私たちは皆、祖国パレスチナへの帰還の権利を待ち望んでいる。

国連決議242号(注2)には、パレスチナ難民が補償を受ける権利と、避難した故郷に帰還する権利が規定されているからだ。しかし、この決議はイスラエルによって否決され、その後は忘却の彼方へと追いやられてしまった。

(注2:国連決議242号は、1967年に採択された決議で、中東におけるアラブ・イスラエル間の紛争の解決に関するものです。その中には、アラブ・イスラエル間のすべての戦争行為の停止などが含まれています。この決議では帰還権については直接語られていないのですが、おそらくアデルさんが言いたかったのは、1948年に認められた国連決議194号のことだと思います。この決議では、故郷に帰還を希望する難民は可能な限り速やかに帰還を許す、 そう望まない難民には損失に対する補償を行うという内容でしたが、イスラエルはそれを認めず現在に至ります。)


イスラエルは、パレスチナとパレスチナの人々に対する横暴を続けており、ガザであれヨルダン川西岸であれ、彼らの土地やキャンプに残っているすべてのパレスチナ人を強制送還するという大きな目標を持っている。イスラエルは、イスラエル国家が純粋なユダヤ人国家であることを望んでおり、極右イスラエル政府はこれを実現しようとしている......。私たちは、ヨルダン川西岸地区とガザ地区で起きていること、そしてパレスチナ人の死者の多さを日々目の当たりにしていることに怒り、悲しみ、そして彼らのために祈ることしかできない。

私はまだバカアキャンプに住んでいる。もし私がパレスチナに戻る幸運に恵まれなければ、私はバカア・キャンプの墓地に埋葬されるように遺言を残している。そして、天国にテント(注2)を与えてくれるよう神に祈る...。

(注2:「テント」というのは、アラビア語で「مخيم(ムハイエム)」といい、「住む場所」という意味もあり、アーデルさんが今住んでいる地域も「مخيم البقعة(ムハイエム アルバカア)」といって、日本語では「バカア難民キャンプ」だが、実際にはテント暮らしをしているのではなく街を意味する。アーデルさんが「天空にテントを与えてくれるように神に祈る」と言った背景は、死んでからもずっとこの場所(ムハイエム)に済み続け、耐え続ける覚悟でいる、という強い意思を伝えたかったそうです)



素晴らしい日本人のみなさまへ
私は、あなた方がどれほど教養があり、組織的で、心が広く、心優しく、人道的であるかを知っている。 私からのメッセージは、パレスチナの人々の帰還と自決の権利を支持し、パレスチナの人々のための人道的正義を要求するために声を上げるようにということです。

追伸: 私の祖父と父はサラファンド・アル・アンマルに柑橘類の畑を持っていました。私の一族がこれらの柑橘類の畑を所有していたことを証明する土地の文書が、今でも私の手元にあります。 」



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