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「家栽の人」とぼく。その①

■ 子どもの頃の記憶
 「家栽の人」の最初の記憶は古い。父親は「ビッグコミック」「ビッグコミックオリジナル」を購読していたが、まだ中学生だったぼくには「3丁目の夕日」や「パイナップルアーミー」が面白かったくらいで、他はあまり読んでいなかった。そんなとき、1歳上の姉が「これ、面白いよ」と勧めてくれたことを覚えている。ぼくらが、家庭裁判所を舞台にした一見地味な漫画に興味をもったのは、もしかしたら、少し前に両親の離婚などを経験していたからかもしれない。
 これだけ裁判のことにくわしく人を感動させるストーリーを書ける毛利甚八という人は、おそらく定年退官した裁判官かなにかなのだろうと思っていた。
 ぼくは、「家栽の人」を通じて、法曹界というものを知り、勝手に想像を広げていったのだった。
■ 大学時代
 その後、「家栽の人」は、徐々に知名度を増していき、ぼくが大学生になったころには、テレビドラマ化もされていた。桑田判事が片岡鶴太郎、というのはちょっとイメージが違うのではないか、と思ったりもしたが、続けてみていると意外としっくりくるような気もした。
 当事、裁判所の事務官や調査官を目指す学生は、「『家栽の人』を読んで裁判所で働きたいと思いました」と答えるといいらしい、というまことしやかな噂が聞こえてくるほど、「家栽の人」はメジャーな作品となっていた。
 大学生だったぼくは、司法試験を目指し始めていた。よく弁護士になってから聞かれる質問のひとつは、「親戚に弁護士とか裁判官とか、いらっしゃるんですか」「いないのに、なぜ目指そうと思ったのですか」というものだ。親戚に法曹関係者はいない。
 ぼくと司法とつないでいたのは、「家栽の人」だけだったのは間違いない。
■ 少年事件
 そうはいいつつも、司法試験を目指していたころのぼくは、少年事件をやりたい、と思っていたわけではなかった。むしろ、やりたくない、と思っていたかもしれない。
 小学生のころ、両親が離婚し、父親と一緒に暮らしていたぼくらは、食事や弁当を作ってくれる人もいなかった。そのころから、自分たちで、自分の身の回りのことをやらざるを得ない環境で育っていた。
 だから、クラスにいた弁当をもってきている不良や、体育祭のゼッケンを親から縫ってもらっている「不良」が大嫌いだった。
 家庭に恵まれているくせに、髪を茶色に染めたり、格好つけることばかり考えて、授業をさぼる甘えたやつ。それがぼくの「不良」に対する評価だった。なんで、そんなやつらの味方をしなければならなんだ、と本気で思っていたのだ。
■ 修習生時代
 そんなぼくの考えが大きく変わったのは、司法修習生時代にみせてもらった少年事件だった。
 経済的には何不自由ない家庭。リトルリーグで活躍していた少年は、父親からプロ野球選手になることを期待されていた。父親との関係は良好だった。少年が野球を続けているうちは。
 中学2年生になって、監督に反発した少年は、レギュラーを外されてしまい、部活を辞めた。すると、それまで野球が中心だった父親との会話はなくなっていった。たまに顔をあわせると「野球を辞めたんだから、勉強くらいしないと」と言われる関係。それまでは、「この子は野球バカなんで」と勉強をしないことをとがめることもなかった父親の豹変。実際、勉強は苦手だった。
 少年の居場所は、家にも学校にもなかった。それを受け入れてくれたのは不良グループだった。
 もともと体力も度胸もある少年だったので、髪を伸ばして、バイクを乗るようになるとあっという間に、リーダー格に上り詰めていった。
「本当はお父さんに相談したかったけど、仕事で忙しそうで、できなかったんです。」
 野球を辞めたいと思ったときに父親に相談できなかったつらさを少年は、鑑別所で語ってくれた。その少年が面会の最後に言った言葉がいまでも胸にささる。
「次はいつ会いに来てくれますか?こんなに大人の人に話を聞いてもらったのははじめてです」
 両親がいない子だったらわかる。両親がそろっている子がこういったのが哀しかった。両親もそろっており、経済的に恵まれていても、こういう気持ちになることはあるのだな、と初めて知った。そして、ぼくは、そんな子たちの話を聞いて上げれる存在になりたいと思ったのだ。
 それから、ぼくの少年事件に対するスタンスは、がらっと変化した。

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