「家栽の人」とぼく。その③
■ 家裁のマンホールの蓋
あるとき、毛利さんと電話で話していたとき、こんな話を飛び出した。
「うわさで聞いたんだけど、福岡の家裁のマンホールの蓋は、『裁』ではなく『栽』になっているらしいんだ。知名くんは、その話、知っている?」
あいにく、ぼくは、聞いたことがなかったので、
「今日、家裁にいくので、確認してきますね」といって、電話を切った。
実際に、家裁で事件を終えたあと、マンホールの蓋を確認するとたしかに、『裁』ではなく『栽』の文字が刻まれている。驚きだ。
写真をとって、毛利さんにメールに添付して送ると、「笑いました。
すごいですね。」との返信が帰ってきた。
それからしばらく毛利さんと連絡をとらない時期があったあと、一冊の本が送られてきた。
「『家栽の人』から君への遺言~佐世保高―同級生殺害事件と少年法」という毛利さんが書いた本だった。
毛利さんもぼくと同じ佐世保の出身。佐世保で起こった衝撃的な事件について、考えるところがあったのだろう。
その本の説明を見ると毛利さんが「末期の食道がん」であることが書かれていた。(タバコは吸うものの)自然派で、健康的な印象だった毛利さんががんに侵されていたとは、想像もしなかった。
ぼくは、毛利さんの声が聞きたくて、携帯に電話をしたけれど、電話が通じることはなかった。それから1カ月後、毛利甚八さんが亡くなったという知らせが届いた。ぼくと毛利さんの最後の会話は、福岡家裁の「マンホールの蓋」のことだったのだ。
■ マンホール入手のために
その後、福岡の家庭裁判所の移転が迫ってきた。移転後の旧家裁は当然、取り壊されることになるだろう。毛利さんとの思い出もあり、ぼくは旧家裁のマンホールの蓋を保存したいと強く願うようになった。
さいわい少年事件や、少年への就労支援をやっているおかげで、マスコミには友人が多かったので、記事にしてもらえるようにお願いした。
その結果、2018年6月には西日本新聞に「家裁マンホールに「家栽」―少年裁かず育てる?」と題する記事が掲載された。
新聞記者がが調べたところによると、旧家裁が新築されたのは、1975年。「家栽の人」の連載が開始された1987年よりも、前のことだというから、「裁」と「栽」としたのは、単なる誤植だった可能性が高い。
でも、ぼくには、その誤植も貴重なもののような気がしてならなかった。戦後の家庭裁判所で行われていたような、「家栽の人」で描かれたような「裁」くのではなく、育てるような家裁をこれから残していくためにも、ぼくは、この「家栽」のマンホールを保存したかったのだ。
様々なルートを通じて調べたところ、土地建物が国庫に帰属しているうちは、譲渡してもらうのは難しいだろう、ということだった。そこで、ぼくは旧家裁が民間に払い下げられるタイミングを待つことにした。
■ ついに旧家裁が取り壊される
2024年1月、ついに民間の企業グループが旧家裁の土地建物を落札したというニュースが飛び込んできた。
いま動かないと一生後悔する、と思ったぼくは、これまでの経緯をまとめて、知り合いの不動産業者や司法書士、税理士などに送り、だれか企業グループと人脈をつないでくれないだろうかと頭をさげた。
そのなかのひとりに、TNCという地方テレビ局の取締役がいた。大学の先輩であり、元西日本新聞の(エース)記者だった人物だ。
「それ、番組で取り上げるから、ちゃんと協力しろよ」というと、その後、話はとんとん拍子で進んでいった。
取材の日、旧家裁の前に久しぶりに立つ。当日は、落札した企業グループの担当者も来てくれており、旧家裁の内部にも入ることができるということだった。
電気もつかない旧家裁の建物に、懐中電灯をもって、入っていく。2階に行くと、日光がさしているので、視界は良好となった。
家裁の法廷や審判廷は、きれいに保存されていた。机等は撤去されていたがやはり面影がある。あのころ、経験した様々な事件が頭のなかでよみがえり、自然と涙が浮かんでくる。まさか、もう一度、旧家裁に入れるとは思っていなかったので、これは貴重な体験だった。
撮影の中で、企業グループの担当者と名刺交換する機会もあった。
「実は、私も『家栽の人』を読んでいたので、ぜひこのマンホールの保存には協力したいと思っているのです」。
毛利さんに伝えたくなるような、ありがたい言葉だった。