ウエハースの椅子 江國香織

2週目読み中です。感じたままに。


”夏の夜、私は恋人とビールをのんでいる。私は恋人のひと口目のビールが好きだ。彼がとてもおいしそうな顔をするし、彼の喉がゆっくり上下に動くのが見えるから。それにときどき泡が上唇の外側に残るから。私は、ビールの泡をつけた恋人の口元が好きだ。”

とても解像度の高いシーンだと思う。思わず「私も。」と目を細めて呟いてしまった。それを彼の近くで見られる幸せ。私だけの幸福。
私は酒を飲むことが好きだが、恋人と飲む酒は格別だ。それはどんな高級な酒よりも美味しく、彼といる狭い部屋は欠けたピースがはまったかのように完璧な空間に変身する。
彼のすべてが今、この時間だけは私が独り占めできるという満足感。このフレーズからはそれがよく伝わってくる。
そして”恋人は鶏肉に塩をつけてあぶってくれる。なすを焼き、鰹節を削ってくれる。”

”私はみちたりて、怖いものなど何もない、という気分になってしまう。”

私もつられて、世界は私を中心に回っているような、そんな気持ちになる。
まるでドラマの1シーンの中にいるかのようにキラキラと輝いている。
今死んでも後悔しないと断言できるほどに。むしろ今天に召されたい。
彼女は食事のあと、恋人と夜の散歩に出る。他愛無い話をしながら。

”次の瞬間、不意にそれが訪れる。それとは、恋人が帰る瞬間のことだ。”

それは本当に突然。彼と出会った時から、幾度となく繰り返してきているはずのことなのに、しっかり足元を見ながら慎重に歩いていたはずなのに、いつも孤独へとつながる崖に気付けない。だからさよならは嫌いだ。

”私は浮かれて散歩にでたことをあやうく後悔しそうになり、すんでのところで戒めた。後悔は嫌いなのだ。”

私はいつも半分後悔してしまう。私をおいて遠ざかっていく恋人を少し嫌いになる。
胸のところがぎゅっと苦しくなって息がしづらい。別れ際にいくら気持ちを確かめ合っても埋まらない穴がある。
その時、彼女は後悔することをすんでのところでやめるのに、私にはそれができない。なぜなら私は彼女より幾らか若く、幾らか弱虫なのだ。そして彼女ほど孤独とまだ仲良くなれていない。
その結果、私は「行かないで」と駄々をこねる。遠い昔の、幼い私がそうしていたように。彼の困った笑顔さえも愛おしい。

”帰り道、私は注意深く、きた時と別の道を選んで帰る。上手く一人に戻れるように。”

家に帰ったらきっと、孤独が優しい顔で出迎えてくれるのだろう。
そして彼女が眠ったあと、彼女の瞼から溢れた結晶をすくって食べるのだ。


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