![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/172557147/rectangle_large_type_2_d6ba0ad69db3ea5a29aa8cf58e3f2976.jpg?width=1200)
私の両親の話を聞いてほしい
私の両親の話を聞いてほしい。
両親と祖母、4人きょうだいで暮らしていた。
限界集落のようなど田舎の、江戸末期から建ってるらしい家だった。
父は片道2時間かけて都会まで通勤してた。
母は長女の私が小学生の頃から働きに出ていた。
放課後や夏休みは祖母が子どもたちをみてくれてた。
母が言うには、自分はシングルマザーのようだったと。父は子育てには非協力的だったそう。
だけど、日曜日は父の後ろをついてまわって車で連れ出してもらったり、小さい頃はよく遊んでもらってた思い出はある。
きっと学校関係の対応を全部母1人でやっていたのだろう。今の私もそうだから気持ちは分かる。
母は自分も同じ町内出身のくせに田舎の人をいつも見下してた。自分は街のお嬢さんのような言動をして当然ちょっと浮いていた。
でもちょっと変わってるけどいつもニコニコしてて綺麗なママが大好きだった。
私が低学年の頃は保険の外交員をやっていたけど、知り合いの紹介で「社長」という母より20才くらい上の男性と一緒に仕事をやっていくことになった。
社長が出すお店の運営を任せる、と。
母はその会社の代表取締役となり、社長のパートナーとしてお店をやっていた。
喫茶店ブティック。社長の住居兼店舗の一階でお店をやっていた。置いてる商品はおばさん向けの洋服、ジュエリー、アクセサリーなど。ハイブランドまではいかない、ちょっとしたブランドのバッグとか。
自宅のある集落よりは少し車は行き交う所だがど田舎には変わりない場所で、近所の人しかいない住宅地。
儲けを出す目的ではなくて、金持ち社長の道楽だったのかな。
子どもの目から見ても、あまりに場違いでお客が来るとはとても思えなかった。
母は「仕入れ」と称して社長と問屋に出入りして経費で綺麗なスーツとか毛皮のコートとか買ってもらって着飾ってた。
だんだんお店に入り浸るようになり、土日も定休日も年中無休でずっと出勤してた。
集落に嫁ぐのではなくて、きっとそういう社長の奥さんみたいな暮らしをしたかったんだろうな。
社長はとても気さくな人で、頼り甲斐もあって私たち子どもにも美味しいものたくさん食べさせてくれたりして子ども全員社長によく懐いていて、家族ぐるみでの付き合いだった。もちろん父も含めて。
ちなみに社長には奥さんがいて、車で1時間くらいの都会にある社長の本宅で暮らしていた。
私が中学生の頃には、両親の不仲は感じていた。
それなのにその頃、自宅を建て替えることになった。
100年以上建ってるオンボロだったから新築の家は嬉しかった。
工事期間中の半年間は祖母を除く家族全員で、社長の住居兼店舗に居候させてもらった。
なんやかんやあって家が建った。
私中3の時。
新しい家は4人きょうだいにそれぞれ個室があり、夫婦の寝室、田舎必須の二間続きの和室、もちろんリビング、以前の家の増築部だった二間を廊下で繋げて9LDKだった。
ど田舎ゆえの広々新築に、高校生になった私はたくさんの友だちにお泊まりに来てもらって楽しい思いをさせてもらった。
高2の頃、父母の喧嘩に居合わせてしまって、「離婚する」って言われて悲しくて泣いた。でもすぐ離婚はしなかった。
だんだん我が家の経済的問題が切実になってきた。
それでも私は進学して、無理言って海外語学研修まで行かせてもらった。奨学金と教育ローンをやりくりしてもらった。
でもお金の問題がますます深刻になってきた。
しょっちゅう消費者金融から督促の電話がかかってきてた。
父は集落の組長だった時に、集金した自治会費を着服して行方をくらませたりして、父の行動もおかしくなってきた。
世の中は不況であちこちで会社が倒産していく時代。
父の会社は業務縮小でこの頃父はリストラされた。
退職金はかなり前借りしていたそうでほとんど無かったと聞いた。
母が言うには全部父が飲み代に注ぎ込んだって。
父の再就職先はちゃんと見つかった。
収入は激減だったはずだけど。
新卒の就職氷河期の時代。
兄が先に就職して、翌々年私も卒業して就職した。
このタイミングで両親は離婚した。
私が社会人になったばかりの春だった。
弟は高卒で進学はせず、妹は高校生だった。
皆んな母に洗脳されていて、父を悪者にして家を出て行った。
でも私は父が可哀想な気がしてた。
ここに残ろうかな、と言ったら「苦労するから絶対ダメ」と母に言われた。
もう、考えるのが嫌になってどうでもよかった。
後になって思えば、もっと本当のことを知ろうとすれば良かった。
母の友人が夫の転勤に付いて行って家を空けていたので、我々一家はその家に格安で住まわせてもらうことになった。
母は家のローンからは解放されたけど、教育ローンの返済や生活費をクレカのキャッシングで自転車操業してやりくりしていた。
やりくりと言うのだろうか。
私のクレカも毎月貸したし、給料もボーナスもほとんど貯まらなかった。「何万貸して」と言われて返ってはこないと思いながらも毎月渡した。学校行かせてもらったし、留学もさせてもらったし、仕方ない。
兄は早々に結婚してその家からも出て行った。
弟は夢を追って上京した。
妹は高卒でフリーターのようなものだったと思う。
家に残った私と妹は母に協力するしかなかったけど、ある時、借金の整理をしてまとめて借り直すのに妹を連帯保証人にすると聞いて、兄に助けを求めた。
家族会議は開かれたけど、具体策は覚えていない。
こんな状況で結婚して出て行った兄を数年間私は恨んでいた。
母も社長の店の仕事だけではなく、夕方から深夜前まで工場の夜勤のパートへ出ていた。
母にもそんな地道な働き方ができるのかと、とても感心した。なぜなら母は私か高校生くらいの時からネットワークビジネスに手を出していた。成功して儲けている友人たちの話をよく聞かされた。
補正下着や化粧品など。私も30万円の補正下着セットを買ってもらっていた。
化粧品は自然派のすごく少量で高額のもの。
家を貸してくれた母の友人も補正下着で成功して自宅にサロンを増築していた。
そんな風になりたいと憧れていたけど、母はとても成功したようには見えなかった。
また、スピリチュアル系にもハマっていて、波動がどうとか何でも治るサプリとかよく言っていた。
30万の自己啓発セミナーに参加した時はさすがに怒りが湧いてきた。
セミナーで教わったこと、朝5:55に「ゴー!ゴー!ゴー!」と言って起きると運気が上がるっていうのが衝撃すぎて今だに覚えてる。
しかもそれすら3日坊主で実践できなかった。
母の友人夫妻がこちらへ帰って来ることになり住まいを追われた母と私と妹の3人はなぜか社長の家で社長とその奥さんと同居することになった。
その頃にはだいぶ借金は減っていって20代後半には私も多少の貯金はできるくらいにはなっていた。
数年はそこで暮らしたが私は結婚を機に出て行った。
母と妹はその後もずっと社長の自宅兼店舗に住み続けていて、兄も家族を連れて来たりと我が家の実家のような変な場所だった。
もう何年も前からお店の体はなしてなくて、社長と母の仲間たちがコーヒー飲んでだべる溜まり場のような場所だった。
そのうちその家兼店舗が道路の拡張のため立ち退きしなくてはいけなくなって、少し離れた所に新居を建てることになった。
もちろん社長の新居なんだけど、1階が母の住居、2階が社長夫妻の住居というとんでもなく訳の分からない二世帯住宅が出来上がった。
母は当時もさらにそれ以前もずっと貧乏人なのに、人生2度目の「家を建てる」を経験でき、1度目の時と同様に自分で図面を引いたり風水で方角を調べて間取りを決めたりウキウキしっぱなしだった。
しかも自分は一銭も出さなくていいなんて!
社長の息子さんは「なぜ〇〇さん(母)がここに住むの?」と当然の疑問を投げかけていたが、そんなことを気にする母ではなかった。
東京から帰って来た弟もそこで暮らし、その頃妹はどうしていたか?妹がいつ出て行ったか覚えてないが、社長が亡くなった時は弟がそこに住んでいた。
社長は数年間ガンで入退院を繰り返して、奥さんも高齢で持病があったりで、母と弟で2人を介護していた。
社長のほうが先に亡くなった。
社長の死後は当然のごとく、母は家を追い出された。
息子さんはお母さんを引き取り、その奇妙な二世帯住宅を売りに出した。
母は弟と2人でやっと身の丈に合ったアパート暮らしを始めた。
社長と同居してた時から、社長の店の収入など無かったから外でパートしていた。その頃は着物屋さんの販売員だった。
社長からの給料という形はいつまであったのか分からないけど、一緒に暮らしてから家賃や食費や光熱費などかなりの恩恵は受けてたと思うので、やっと何の後ろ盾も無くなって母は自分の力だけで生きていくことになった。
それでも息子が一緒だから、経済的な不安は少し軽かったと思う。
何年か経って、母の実家に住んでいた伯父夫婦が離婚して、奥さんが出て行った。
それで母は実家に帰れることになった。
弟も一緒に母の実家に引っ越して、その後祖母が亡くなり伯父も60代で亡くなり、今は母と弟2人でそこで暮らしている。
子どもの頃は母と社長の関係を、それほど変と思わなかったし、本当にずっと慕っていたし、亡くなった時はすごく泣いたし、何年かはお墓参りも行ってた。
でも今、自分があの頃の母と同じ年齢になって、社長のような存在が私に居たら絶対おかしいと思うようになって、社長って一体何だったんだろうか。
本当のことは本人同士にしか分からないけど、一緒に暮らしてたきょうだい誰も社長と母が男女関係にある所は目撃していない。
いや、他のきょうだいのことは分からないけどもし何かあったら問題になってたと思うし、最低限、私は目撃したことなかった。
でも親戚の叔母さんは母のこと「2号さん」呼ばわりしていたから、世間的にはそういうふうに見えてたんだろう。
父の話。
私は長男を生んだあと、父に孫を見せてあげたいと思って父に会いに行った。
12,3年ぶりだった。
他のきょうだいも誰も父に会っていなかった。
そして両親の離婚について、父サイドからの話を初めて聞いた。
突撃で訪問した時たまたまいた叔母さんから聞いた話と、後日父から聞いた話。
叔母さんはそれはそれは母を恨んでいた。
母はそもそも貯金もできない家計なのに家を建て替えたいと言い出した。
金銭面から親族は反対したが、頭金を社長に出してもらうからと強引に進めた。
ローン返済と生活費で家計は火の車となった。
父の退職金の前借りも生活費に充てていた。
各部屋にエアコンを付けたため電気代は月10万だった。(これは母が言っていた)
お酒を飲んでいたと言っても人並みだと。
離婚した時、社長に借りた頭金300万を返せと、母に送り込まれた兄が叔母さんの旦那さんたちの所へやって来たと。
22,3の息子によくそんなことさせたなと、唖然とする。
私たちが出て行った後、父はローン返済もできなくなり自宅を失う危機になったが、叔母さんの旦那さんともう1人いた叔母さんの旦那さんたちが「高齢のおばあちゃんが住む所を失うのはあまりに可哀想だ」と言ってくれて、
家の名義を一旦叔父さんのものにしたりして、親族みんなでお金を出し合って家を守ったんだそう。
叔父さんの退職金もほとんど消えてしまったと叔母さんは愚痴っていた。
借金でめちゃくちゃにして、子ども全員連れて出て行った母を叔母さんは一生恨んでいた。
父は今はもう何とも思ってないと言っていた。
一時は叔父さんの家となり、祖母の介護の時期でもあり、叔母さん夫婦で里帰りして暮らしていたみたいだけど、祖母も亡くなり叔母さんたちは自宅へ引き上げて行った。
今は父が1人で気楽に暮らしている。
9LDKに1人で。
昔の家の増築部を繋げた二間はもう何年も立ち入ってないから誰かが潜伏していても分からないと言っていた。
ベッドルームが3つくらいあって、今日はどこで寝ようかな、って。
一人暮らしが気楽過ぎて、もう誰かと一緒に住むのは無理だと。
趣味で絵を習ったり、釣りに行ったり、70過ぎても週2回ほど仕事をしたり、穏やかに過ごしていて良かったと思う。
言い忘れてた。
離婚の原因、母の言い分。
家を建て替えて家計が火の車になった時、実家を心配した父のお姉さんに母が「家計簿を付けて私に見せろ。絶対無駄があるはずだ」と言われたって。
屈辱的で耐えられなかったみたい。
祖母に相談したら、「もう帰って来い。このままじゃノイローゼになる」って言ってくれたって。
叔母からしたら、いつも着飾って綺麗にしてる母の金銭感覚を疑ってたんだと思う。
でもそんなこと言われたからって、全部ほっぽり出すなんて、あまりに無責任過ぎると思う。