黄昏鰤 第12話

19日目 「鏖殺!ハッピーバースデー、黄昏マン」

 胸の前、半端に上げた左手から、するりと何か抜けてゆく。追ってそれを見上げると、黒い風船につけられた紐だった。手から離れて、そのまま黄昏の空へ飛んでいく。視界いっぱいの橙にぽつんと黒い点。いや、あれは落ちて行っているのだろうか。どこへ?そんな錯覚をした。
 風船が判別できなくなるまで見上げ、ひとつ伸びをしてから周りを見回す。おれがいるのは三階建ての建物の中庭のようだ。ぐるりと壁に囲われている。斜陽は庭のごく一部を切り取り、そこの地面には草が気ままに伸びていた。
 建物内からはなにやら声がする。気配は不穏だ。ひとか、化け物か。おれが恐れるべきはどちらなのだろう?

 中庭へ向く窓たちのひとつから、声が張り上げられた。

「そこの化け物。話はできるか」

 長い赤毛の女性がこちらを睨みつけている。他の窓からは、恐る恐るといった様子で十五人ほどが覗き込んでいる。全員女性、何人かはおれより若い少女だ。

「話はできる!なにもしない!」

 おれも叫び返した。

「どこから入った?」

 赤毛の女性は酷薄な声で尋ねる。

「わ……わからない、おれにも。気がついたらここに」

「そう言うのか、お前も」

 女性はあからさまに機嫌を悪くした。

「いい加減にしろよ!」

 そう叫んだのは隣の窓から顔を出した別の女性だ。茶髪で肩くらいの長さ。ひどく痩せている。

「テメエらな、どっから入ってきてやがる!?俺たちがいくら見張ってても中庭に入り込んでやがる!アァア!」

 悲愴としか言いようのない金切り声だ。

「すっこんでろ!」

 赤毛が中でどついたらしい。

「だってよ!」

「てめーの声は耳が悪くなる!……おい化け物、お前はこの建物の侵入路を見つけたわけではないと?本当に?」

「そう、です、入り口なんか知りません」

「そうか」

 信じてくれたのだろうか。
 おれの前に、どさりと縄が投げ渡された。凝った縛り方をされている。
 ……輪のついた。

「これ……」

「我々はこの建物に籠城し、化け物を締め出して暮らしている」

 赤毛は言う。

「お前が入って来た以上は排除せねばならん。外へのドアのバリケードを撤去するわけにはいかん」

「……いや、だと、言ったら?」

 声が震えた。

「武装した我々全員で惨たらしく殺す。こちらにも被害は出るだろう。だが結末は同じだ」

 窓から覗く女たちが、示し合わせたように手に持った凶器を挙げる。

「だから、これを選ばせるのは、お前の温情を期待してのことだ。化け物」

「だって、だけど、おれは何もしていない」

「ならばここで我々に与するとでも?認められんのだ、それは。お前のような化け物をここに留めるわけにはいかない。皆を守るのはリーダーとしての私の義務だ」

「失せろ!おっ死ね!化け物!なんだその角ォ!」

 茶髪が叫んだ。

「しんでくれ、我々の安心のために」

 最後にそう告げ、赤毛が指さす先にあったのは、2mほどの高さにある壁のフックだった。近くに木箱も。陽光の当たらない唯一の真っ黒な壁にふさわしい、まるで不吉を描いた絵画のような光景だった。
 窓を振り返って、女たちを見た。みなこちらをの息を詰めて見つめている。団結。信頼。怯えに打ち克つべく身を寄せる、懸命な者たち。頭に浮かぶ情景がある。ガレージ。集まる人々。我々の安心のために。我々の安心のために。
 ……おれは縄を拾い上げ、向かった。
 縄を首にかける。棘だらけの角を手さぐりでくぐらせるのに、ずいぶん手間取った。木箱を縦にして載る。フックに縄の先を結わえる。作業をしていると、窓から誰かが拍手を始めた。フックの結び目が解けないことを確認する。拍手は倍、倍と増えていく。
 女たち全員の暖かい拍手に送られて、おれは木箱を蹴った。

 ……それからしばらくして、ドアがぎいと開いた。女たちの足音が中庭へ入ってくる。身じろぎひとつせず、何かの慣性でわずかに回転するおれのほうへ。

「物分かりのいい……いや!クソ惨めなバカだったな、こいつ!」茶髪の愉快な声。

「今までで一番バカだったね」新しい声。

「なんにもね。反抗せずにマジで死ぬなんてね。あんな早く。バカでしょ」

「ねーこいつも生首飾るのー?」

「飾ろうぜェ!バカ一等賞記念だ!」

 笑い声。人数は4人か5人ほどのようだ。

「リーダー!吊るし切り!頼むぜ!」

「どうやら石肌らしいな。手こずりそうだ。降ろすぞ」

「えー」「えー」

 不満の声を上げる女たちに構わず、ひとりはおれに歩み寄る。凛とした声のリーダー、赤毛の女だ。中庭の最も昏いところへ。「まず頭を落とすぞ──」

 赤毛がおれの背中あたりのシャツを掴む。
 瞬間、おれは目の前の壁を両足で蹴りつけ、体を反転させて背後の赤毛の頭を蹴り上げた!

「ぅごッ」

 反動と遠心力の乗った蹴りは、赤毛の顎をかろうじて捉え、自分でも驚愕するほどの威力で砕き散らした。

「ァ……?」「えっ?」女たちは立ちすくむ。赤毛は辛うじて倒れずにいたが大きく血を吐いた。

「があああッ!」

 おれは頭上のロープに拳の棘を叩きつける。それが支えているのはおれの首ではなく、密かに結わえた角の付け根だ!
 棘に繊維をあちこち断たれたロープは重みで引き千切れる。おれは着地、赤毛の女が持っている大仰な斧を奪って、ふらつく彼女の首へ振り抜く!鮮血が噴く! 赤毛は斃れた! 呆然と囲む女の一人が膝から崩れ落ちる!
「てめェェッ!」茶髪が真っ先に鉈を振り上げて向かってきた! 「死ねクソがァ!」
 茶髪が思い切り振り下ろした鉈を斧でなんとか防ぐも、あまりの衝撃に手から取り落とす。茶髪は再び鉈を高々と掲げた。武器なんているか! おれは懐へ詰め寄り、体重を乗せて角を彼女の側頭部に叩きつける! 深々と刺さる! 茶髪は白目を剥いた!
 角を引き抜き、「クソ……クソ野郎がッ……」混濁した意識で、それでも鉈を振ろうとする茶髪の頭を全力で殴る。首がごきゃりと回った。事切れた彼女を捨て置き、次は座り込んだままの女の髪を引っつかんで、膝を顔面に叩き込む。彼女が倒れる前に、つま先で顔をもう一度蹴り抜いた。中庭に残るは二人だ。

「何……何!?あんた何してんの!?死になさいよ!」

 一人が金切り声で言った。そいつが武器を構える前に、顔に裏拳を叩き込む。棘がなめらかな肌を切り裂いた。こんなに力いっぱい人を殴ったのは初めてだ。こんなに怒りが煮えたぎるのだって初めてだ。頭を掴んで壁へ叩きつける。血の跡がずるりと縦に引かれる。残った一人は逃げようとしていたが、追いすがって殴り殺した。

「あああ!」

 おれは吼えた。何がこんなに憎い?

「何が安心だ!おれからそれを全部奪っておいて!ふざけんなッ!」

 体内の黒い怒りを吐き出すように吼えた。
 理不尽。不条理。暴挙。

「人でなしどもがッ!」

 ドアから建物内へ。すぐ傍に控えていた女をまた殴り殺す。

「どいつもこいつも化け物だろうが!ふざけんな!ふざけるなッ!」

 人を見つけては殺し散らす。

「なんで!おれ一人!我慢しなけりゃいけないんだ!!」

 みんな簡単に死ぬ。

 向かってくる者は殺し、隠れていた者も殺し、尽きることのない暗い情動のまま暴れ回った。表情筋が知らない張り詰め方をしている。悲鳴がうるさい。泣き声もうるさい。一番うるさいのは、自分の怒号だった。そして、徐々に、静かになっていった。

 ……目の前には、唯一の生き残りとなってしまった少女がうずくまっている。逃げ疲れ、泣き疲れ、しゃくりあげているというよりは痙攣が止まらないらしい。目の前におれが立っているのが見えているのかいないのか、頭を抱える腕の隙間から曇った硝子のような瞳が揺れている。
 おれは彼女をそのまま置いていった。ずっと一人でそうしてろ。玄関のバリケードをめちゃくちゃに壊して、外へ出た。
 外は相変わらずの黄昏時だ。振り返ると、一見何の変哲も無い、市庁舎があった。中は死体の山だ。気に食わないやつを目一杯斃した。おれは無事に生きている。なのに、なにも、嬉しくなかった。清々しくなかった。殴り続けた拳が痛い。体を支えた角の付け根もまだ痛い。
 そういえば、首に縄を掛けたままだった。取る気も起きない。おれは空に向かって吼えた。

「なんでおれは一人なんだ!」

 右目がまた燃え爆ぜる。答えを焼き尽くすように。ああ、おれは団結して暮らす彼女たちが羨ましかったのか。輪に入れず寂しかったのか。今更、気がついた。
 落ちるように空へ浮かんで行った風船のことを思い出す。おれも、どんどん堕ちるように見えて、本当は昇っているのかもしれない。どちらにせよ、手を離してしまった以上、あとは加速するだけだ。

 こうしておれは、今日、一人前の化け物になった。


【魂6/力5/探索3】『獣耳、角、火玉、棘、石肌』

(つづく)



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