黄昏鰤 第12話
19日目 「鏖殺!ハッピーバースデー、黄昏マン」
胸の前、半端に上げた左手から、するりと何か抜けてゆく。追ってそれを見上げると、黒い風船につけられた紐だった。手から離れて、そのまま黄昏の空へ飛んでいく。視界いっぱいの橙にぽつんと黒い点。いや、あれは落ちて行っているのだろうか。どこへ?そんな錯覚をした。
風船が判別できなくなるまで見上げ、ひとつ伸びをしてから周りを見回す。おれがいるのは三階建ての建物の中庭のようだ。ぐるりと壁に囲われている。斜陽は庭のごく一部を切り取り、そこの地面には草が気ままに伸びていた。
建物内からはなにやら声がする。気配は不穏だ。ひとか、化け物か。おれが恐れるべきはどちらなのだろう?
◇
中庭へ向く窓たちのひとつから、声が張り上げられた。
「そこの化け物。話はできるか」
長い赤毛の女性がこちらを睨みつけている。他の窓からは、恐る恐るといった様子で十五人ほどが覗き込んでいる。全員女性、何人かはおれより若い少女だ。
「話はできる!なにもしない!」
おれも叫び返した。
「どこから入った?」
赤毛の女性は酷薄な声で尋ねる。
「わ……わからない、おれにも。気がついたらここに」
「そう言うのか、お前も」
女性はあからさまに機嫌を悪くした。
「いい加減にしろよ!」
そう叫んだのは隣の窓から顔を出した別の女性だ。茶髪で肩くらいの長さ。ひどく痩せている。
「テメエらな、どっから入ってきてやがる!?俺たちがいくら見張ってても中庭に入り込んでやがる!アァア!」
悲愴としか言いようのない金切り声だ。
「すっこんでろ!」
赤毛が中でどついたらしい。
「だってよ!」
「てめーの声は耳が悪くなる!……おい化け物、お前はこの建物の侵入路を見つけたわけではないと?本当に?」
「そう、です、入り口なんか知りません」
「そうか」
信じてくれたのだろうか。
おれの前に、どさりと縄が投げ渡された。凝った縛り方をされている。
……輪のついた。
「これ……」
「我々はこの建物に籠城し、化け物を締め出して暮らしている」
赤毛は言う。
「お前が入って来た以上は排除せねばならん。外へのドアのバリケードを撤去するわけにはいかん」
「……いや、だと、言ったら?」
声が震えた。
「武装した我々全員で惨たらしく殺す。こちらにも被害は出るだろう。だが結末は同じだ」
窓から覗く女たちが、示し合わせたように手に持った凶器を挙げる。
「だから、これを選ばせるのは、お前の温情を期待してのことだ。化け物」
「だって、だけど、おれは何もしていない」
「ならばここで我々に与するとでも?認められんのだ、それは。お前のような化け物をここに留めるわけにはいかない。皆を守るのはリーダーとしての私の義務だ」
「失せろ!おっ死ね!化け物!なんだその角ォ!」
茶髪が叫んだ。
「しんでくれ、我々の安心のために」
最後にそう告げ、赤毛が指さす先にあったのは、2mほどの高さにある壁のフックだった。近くに木箱も。陽光の当たらない唯一の真っ黒な壁にふさわしい、まるで不吉を描いた絵画のような光景だった。
窓を振り返って、女たちを見た。みなこちらをの息を詰めて見つめている。団結。信頼。怯えに打ち克つべく身を寄せる、懸命な者たち。頭に浮かぶ情景がある。ガレージ。集まる人々。我々の安心のために。我々の安心のために。
……おれは縄を拾い上げ、向かった。
縄を首にかける。棘だらけの角を手さぐりでくぐらせるのに、ずいぶん手間取った。木箱を縦にして載る。フックに縄の先を結わえる。作業をしていると、窓から誰かが拍手を始めた。フックの結び目が解けないことを確認する。拍手は倍、倍と増えていく。
女たち全員の暖かい拍手に送られて、おれは木箱を蹴った。
◇
……それからしばらくして、ドアがぎいと開いた。女たちの足音が中庭へ入ってくる。身じろぎひとつせず、何かの慣性でわずかに回転するおれのほうへ。
「物分かりのいい……いや!クソ惨めなバカだったな、こいつ!」茶髪の愉快な声。
「今までで一番バカだったね」新しい声。
「なんにもね。反抗せずにマジで死ぬなんてね。あんな早く。バカでしょ」
「ねーこいつも生首飾るのー?」
「飾ろうぜェ!バカ一等賞記念だ!」
笑い声。人数は4人か5人ほどのようだ。
「リーダー!吊るし切り!頼むぜ!」
「どうやら石肌らしいな。手こずりそうだ。降ろすぞ」
「えー」「えー」
不満の声を上げる女たちに構わず、ひとりはおれに歩み寄る。凛とした声のリーダー、赤毛の女だ。中庭の最も昏いところへ。「まず頭を落とすぞ──」
赤毛がおれの背中あたりのシャツを掴む。
瞬間、おれは目の前の壁を両足で蹴りつけ、体を反転させて背後の赤毛の頭を蹴り上げた!
「ぅごッ」
反動と遠心力の乗った蹴りは、赤毛の顎をかろうじて捉え、自分でも驚愕するほどの威力で砕き散らした。
「ァ……?」「えっ?」女たちは立ちすくむ。赤毛は辛うじて倒れずにいたが大きく血を吐いた。
「があああッ!」
おれは頭上のロープに拳の棘を叩きつける。それが支えているのはおれの首ではなく、密かに結わえた角の付け根だ!
棘に繊維をあちこち断たれたロープは重みで引き千切れる。おれは着地、赤毛の女が持っている大仰な斧を奪って、ふらつく彼女の首へ振り抜く!鮮血が噴く! 赤毛は斃れた! 呆然と囲む女の一人が膝から崩れ落ちる!
「てめェェッ!」茶髪が真っ先に鉈を振り上げて向かってきた! 「死ねクソがァ!」
茶髪が思い切り振り下ろした鉈を斧でなんとか防ぐも、あまりの衝撃に手から取り落とす。茶髪は再び鉈を高々と掲げた。武器なんているか! おれは懐へ詰め寄り、体重を乗せて角を彼女の側頭部に叩きつける! 深々と刺さる! 茶髪は白目を剥いた!
角を引き抜き、「クソ……クソ野郎がッ……」混濁した意識で、それでも鉈を振ろうとする茶髪の頭を全力で殴る。首がごきゃりと回った。事切れた彼女を捨て置き、次は座り込んだままの女の髪を引っつかんで、膝を顔面に叩き込む。彼女が倒れる前に、つま先で顔をもう一度蹴り抜いた。中庭に残るは二人だ。
「何……何!?あんた何してんの!?死になさいよ!」
一人が金切り声で言った。そいつが武器を構える前に、顔に裏拳を叩き込む。棘がなめらかな肌を切り裂いた。こんなに力いっぱい人を殴ったのは初めてだ。こんなに怒りが煮えたぎるのだって初めてだ。頭を掴んで壁へ叩きつける。血の跡がずるりと縦に引かれる。残った一人は逃げようとしていたが、追いすがって殴り殺した。
「あああ!」
おれは吼えた。何がこんなに憎い?
「何が安心だ!おれからそれを全部奪っておいて!ふざけんなッ!」
体内の黒い怒りを吐き出すように吼えた。
理不尽。不条理。暴挙。
「人でなしどもがッ!」
ドアから建物内へ。すぐ傍に控えていた女をまた殴り殺す。
「どいつもこいつも化け物だろうが!ふざけんな!ふざけるなッ!」
人を見つけては殺し散らす。
「なんで!おれ一人!我慢しなけりゃいけないんだ!!」
みんな簡単に死ぬ。
向かってくる者は殺し、隠れていた者も殺し、尽きることのない暗い情動のまま暴れ回った。表情筋が知らない張り詰め方をしている。悲鳴がうるさい。泣き声もうるさい。一番うるさいのは、自分の怒号だった。そして、徐々に、静かになっていった。
◇
……目の前には、唯一の生き残りとなってしまった少女がうずくまっている。逃げ疲れ、泣き疲れ、しゃくりあげているというよりは痙攣が止まらないらしい。目の前におれが立っているのが見えているのかいないのか、頭を抱える腕の隙間から曇った硝子のような瞳が揺れている。
おれは彼女をそのまま置いていった。ずっと一人でそうしてろ。玄関のバリケードをめちゃくちゃに壊して、外へ出た。
外は相変わらずの黄昏時だ。振り返ると、一見何の変哲も無い、市庁舎があった。中は死体の山だ。気に食わないやつを目一杯斃した。おれは無事に生きている。なのに、なにも、嬉しくなかった。清々しくなかった。殴り続けた拳が痛い。体を支えた角の付け根もまだ痛い。
そういえば、首に縄を掛けたままだった。取る気も起きない。おれは空に向かって吼えた。
「なんでおれは一人なんだ!」
右目がまた燃え爆ぜる。答えを焼き尽くすように。ああ、おれは団結して暮らす彼女たちが羨ましかったのか。輪に入れず寂しかったのか。今更、気がついた。
落ちるように空へ浮かんで行った風船のことを思い出す。おれも、どんどん堕ちるように見えて、本当は昇っているのかもしれない。どちらにせよ、手を離してしまった以上、あとは加速するだけだ。
こうしておれは、今日、一人前の化け物になった。
【魂6/力5/探索3】『獣耳、角、火玉、棘、石肌』
(つづく)
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