黄昏鰤 第31話
61日目 「聖域!調査隊は謎の廃工場へ飛んだ」
走り疲れて座り込む。まだ声が聞こえてくるようだった。
「ぐうっ」
気味の悪さを振り払うように、目の前の壁を殴りつける。
存外に、どずんっという重たい音が鳴り響いて、思わず身が竦んだ。高く厚い壁がびりびりと震えていた。この右腕、どれだけ力があるのだ。
壁は横にずっと広がっている。もしや、町を囲む壁なのだろうかと思ったが、少し離れてみると中の建物が見えた。朽ちた工場のようだ。広い敷地の中に気配はひとつも感じない。壁で隔離された聖域なのだろう。壁沿いに歩いて探ってみると、錆びついて真っ赤な門があった。試しに押してみてもびくともしない。門の横には守衛室があるが、ガラスが真っ黒に塗りつぶされて中は伺えなかった。割って入る気にはなれなかった。
門を過ぎて、また壁に沿って進んでみる。灰色で塗りつぶされた壁面は時折出っ張り、時折引っ込み、それでも崩れることなく続いていた。遠くから機械の駆動音が聞こえる。工場は動いているのだろうか。
音の方向へ進んでいくと、他と違う壁が現れた。コの字型にへこんだその部分では、工場の建物のひとつが壁と接続しているようだ。通気孔らしき穴が上方にぽつぽつと空き、小さな窓もある。敷地に入る裏口として使われていたのかもしれないが、壁のほとんどを巨大な木が喰らうように塞ぎ、ドアらしきものは見えない。
聞こえていた駆動音は木の横にある赤茶色の換気扇が発しているものだった。下は地面に接し、上は見上げるほど大きい。カバーは取り外されていて、剥き出しの羽根がぐんぐんぐんぐんと唸りながら回り続けている。建物内の様子はよく見えない。目の前に何度も振り下ろされる赤茶色の羽根は残虐な刃物を思わせた。
ふと思いついて、右手を伸ばしてみた。回る羽根の、軸。黒い手で思いきりそれを掴む。
少し手首を捻られながらも、回転を止めることができた。この右腕、本当にどれだけ力があるのだ。おれは手を離さないよう注意しながら、羽根の隙間に体をくぐらせて、建物内に忍び込んだ。背後で再び換気扇が回り出した。
建物は広い倉庫だったようだが、荷物や棚は何もなく、広い空間だけが残されていた。明かり取りの天窓から黄昏色の空が見える。壁を突き破った木の幹に寄り添うように細く斜陽が射している。床に積もった薄い土からは小さな草が花を咲かせていた。
固い扉を開けて外へ出てみる。様々な大きさの建物がコンクリートの道で繋げられていたが、大きな樹木があちこちに生えて、四角い区画を乱していた。壁には蔦、道には花。遠い換気扇の音以外は何も聞こえない。
小さな広場に、ひときわ大きな樹があった。白くてひらひらした花が枝を飾る、優しい樹だった。その下に何故か革のソファーが運び出されている。工場のどこかにあったものかもしれない。座ってみる。しっかり体を支えてくれる。広い座面にそのまま寝転んだ。
高い壁に囲まれた廃工場の真ん中で、白い花に見守られながら、ひとり安らかに眠った。
62日目 「二度寝に次ぐ二度寝!優しい夢へ」
左半身を下にしてぐうぐう眠る。ここには誰も来ない。靴を脱いで丸くなる。ソファーは柔らかすぎず心地よい。
このまま辺りが水で満ちて、町は海になって、おれはソファーを船にして流され続ける。そんな空想はいつしか無意識の夢に取り上げられて、勝手な方向へ転がっていった。
夢が何度目かに浅くなったとき、誰かが頬を撫でているのを感じた。ここには誰も来ないはずなのに。その手はつい先日おれを撫でてくれたのと同じ手だ。するり、するり、変わらぬ優しい調子で右頬を撫でる。一体誰なのだろう。確かめたかったのに、やはり目が開けられなかった。
また夢も突き抜けた深い眠りに落ち、もう一度目覚めたときには誰もいなかった。
ひとつ、樹から落ちた白い花が胸の中に残っていた。これが頬に当たった感触で夢を見たのだろうか。そんなわけはなかった。湾曲した角がそれを防いでいたはずなのだ。これが顔に当たったわけがない。
そもそも誰かがいたとして、この角をよけて頬を撫でるなんてことをするのだろうか。やはり夢なのだ。
それでもあの優しい感触が忘れられず、右頬に手を当てて、思いを馳せた。右目の火玉がぱちりと爆ぜた。
63日目 「介錯!終わりとはなんなのだろう」
白い花の樹の庇護から離れ、廃工場を歩き回った。壊れた設備と眠るような木々が立ち並ぶばかり。高い壁の中にはやはり誰も入って来ないようだ。ここは安らかだけれど、あの黒猫はいない。おれは工場を出ることにした。それは勇気のいる選択だった。
外壁にもたれる樹をよじ登る。そんな樹は何箇所かにあったので、出るのは容易いようだ。高い壁の上を歩いて進んでみた。町は相変わらず不穏な物音と気配で満ちている。
ふと、目下に気配を感じた。灰色のぼろ布をぐるぐると纏った男がいる。
近くに棄てられたマットレスがあったので、そこに飛び降りた。おれを受け止めたバネがけたたましい音を立て、男がわずかに身じろいだ。もじゃもじゃとした髭で表情はわからない。
「……こんにちは」
おれは声をかけてみた。男は長めの沈黙のあと、返答した。
「……よう化け物」
「おじさんは、人間ですか」そう問えば、男はかすかに笑った。空虚な自嘲だった。
「とっくに違う」
ごりごり、と地を引きずる音。男がその長い爪を動かしたのだった。猛禽類を思わせる鉤爪がぼろ布から覗いている。それだけか、と思ってしまったおれはどれほどの化け物か。
「ここで何を……?」
「……壁の中に、入ろうとしたんだがな。入口がなかった」
高い壁を見上げながら男がこぼす。
「おめえは中から来たみたいだが。おれが見つけられなかっただけか。そうか」
「中、入りますか?」
「……いい。もういい。疲れた」
ふうーっ、と長いため息が髭の合間から吐き出される。
「なあ化け物」男はぽつりと力なく言った。「終わらせてくれねえか」
「何を、でしょうか」
「俺を。もう、疲れたんだ……」
「……この町で、終わりなんてあるんですか?」
「さあわからん」男は空を見上げた。
「でもたぶん、あと一回だ。俺はな。それでもう終わる、わかるんだ。俺はもう疲れた。これ以上、歩けない。人間どもに見つかって殺されるのを待ってたが、そしたらおめえが来てくれた。立派な化け物がな。なあ、終わらせてくれねえか、俺を」
終わり。化け物の終わり。
しばらくの沈黙のあと、おれは男の正面に立った。
「そうか。あのクソ野郎どもに殺されて終わるよりずっとマシだ、ありがとよ。人間なんてやめて正解だ。俺は幸せだ。おめえも幸せになるんだぞ」
「おじさん、さよなら」
「さよなら、死神」
おれは踏み込み、体を勢いよく回した。
竜の尾に吹き飛ばされた頭が転がっていく。吹き上がる血でぼろ布は赤く染まっていった。おれは頭を拾い上げて男のそばに置き、その場を去った。
【魂24/力12/探索3】『獣耳、角、火玉、竜尾、鬼腕』
(つづく)
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