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【連載小説】絵具の匂い 【第11話】火を運ぶ鳥

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絵具の匂い 【第11話】火を運ぶ鳥


結局は二週間近くにもなってしまった西オーストラリアへの旅だったが、なんとか無事にセントキルダの『黒い家』に帰ってくることができた。

そして、俺達はまた普段の生活に戻り、平穏な時間が流れて行った。変わった事はと言えば、その後しばらくして『黒い家』の中の少し大きめのユニットが空いたので、それまでそれぞれ別々に住んでいた個室からそこに移って二人で一緒に暮らし始めた事だった。

そのユニットには部屋が二つあり、古いけど小さなキッチンとバスルームもついていて便利だった。一部屋を寝室に、もう一部屋を居間兼アトリエに使った。食事をする部屋の中にもいつも絵具の匂いが漂っていたが直ぐに慣れてしまい全く気にならなくなった。

個別のユニットには移ったものの、共有スペースで時間を過ごすことももう習慣になっていたので、共同キッチンにも頻繁に顔を出し他の住人とも同じように交流していた。そんな訳で日々の生活はあまり変わらなかった。

その頃には、俺とセシリアは細かい衝突を通じてお互いを理解しあい、相手の生活も尊重しながら一緒の時間を楽しく過ごすようになっていた。

そんな生活の中で、俺は大学院での過程を無事に修了することができ、一応ガウンを着て角帽を投げたりするような卒業行事にも参加し、学位を手にすることができた。その後、俺は大学院で知り合った友人の会社で働きながら次の資格に向けて細々と勉強を続けていた。

セシリアの方も、美術大学卒業の時期が近づいていた。彼女は卒業したらそのまま大学の職員として働きながら、これまで通り絵を描くつもりのようだった。

***

そんなある日の事だった。夜の10時過ぎだっただろうか。家の中で人が走り回る騒がしい音がしていた。そしてしばらくすると大きな音でドアがノックされた。

There's a fire upstairs!  Everyone, evacuate now!
(3階が火事だ、みんなすぐ外に出ろ!)
ドアを開けるとラケーシュが各部屋のドアを叩いて回っていた。

廊下に出てもまだそんな様子は感じられず一瞬 prank(ドッキリ的冗談)かなと思ったが、家の中のどこかから聞こえる叫び声や走りまわる音からすると本当のようだった。

俺達は、重要書類や少ない貴重品を鞄に詰めると、急いで階段を降り一旦家の外に出た。外から見上げると確かに3階の一画の四つの窓のうち、二つの窓から火が出ているのが見える。大半が木でできているような集合住宅なのでどんどん火が大きくなっているようだった。既に消防車は呼んでいるようだったがまだ来ない。

俺は家の裏に停めてある車(マイ・シャレード)に、急いで鞄を積み込むと『黒い家』から離れた広い道路に車を移動して停め直した。

なかなか消防車は到着せず、みるみる間に3階の全ての窓から火が出始めた。1階の入口に近い部屋の住人はまだ何かを取りに行ったりしていたが、俺達の住んでいた2階にはもう戻れない状態だった。『黒い家』は見る見るうちにかなり派手に燃え出した。最初は3階だけのボヤ程度で終わるのではないかと高を括っていたのだが、この火の勢いではかなりヤバそうである。俺は部屋に何を残してきたか考えていた。

家の周辺には避難した住人の他にもたくさんの野次馬が集まっていた。人混みの中には、ちょっと心配だった長老フランクじいさんの顔も見えた。幸い火が出たのがまだ皆が起きている時間だったので、もう『黒い家』の中に残っている人間はいないようだった。

やがて『FIRE』と大きく書かれた真っ赤なハシゴ車が到着した。到着した fire brigade(消防隊)は直ぐに放水を始めたが風が強いこともあり火はなかなか収まる様子を見せなかった。

近所の住人にも避難の指示が出されたようだった。夜空でも見えるような大きな太い煙が狼煙のように空へと上がり、辺りは家の近くに居れないほどの熱気に包まれていた。

開けっ放しになった家の入口を、中からの消火をするためなのか時折消防士が出入りしている。それを見ながら俺は、この家に初めて来た時にその黒いドアに「Give a big knock!」(大きな音でノックしてね)と書かれた紙が貼られていた光景や、これまでの共同キッチンでの生活を思いだしていた。泣き顔のセシリアも俺の横で火の上がる家を見ていた。消火活動は夜中まで何時間も続いた。

***

深夜に及ぶ消防隊の皆さんの努力で、周りに燃え移ることなく『黒い家』の火は消し止められた。燃え崩れることはなかったもののほとんど全焼の状態だった。心配して様子を見に来てくれた近所でデリをやっているエスタが、今日はうちに泊まれというのでその日はありがたく泊めてもらうことにした。他の住人もとりあえず市の施設や斡旋してもらった宿泊施設などに散らばって行った。

あっけないものである。この国にきて何年もかけて集めたものは一瞬にして全部燃えてしまった。また、セシリアがこれまで描いてきた絵もほとんど燃えてしまっていた。

結局火事の原因はわからなかった。この国の郊外では大きな bushfire(森林火災)が多く、一説には firehawk(火を運ぶ鳥) の存在がその一因になもっているという言い伝えがあるが、こんな街中の火事はまさかそんな鳥の仕業ではないだろう。3階で一番のヘビースモーカーのフランクじいさんが火の元ではないかと疑う声も聞かれたが、最後まで原因ははっきりしなかった。

参考メモ【firehawk・ファイアホーク】
一部のオーストラリアの鳥には「火による追い込み猟」をする習性がある。一般的に人間以外に火を操る生き物はいないとされているが、この鳥だけが例外だ。
ほとんどの生き物の炎に対する通常の本能の反応はまず逃げることだが、猛禽種の鳥はまったく逆の反応を起こす。山火事があると、まっしぐらに火をめがけて飛んでいき、パニックを起こして火から逃れる小動物を捕らえる。この習性は fire foraging(火による採餌)と呼ばれ、世界各地の猛禽類に見られる。
しかしオーストラリアの猛禽類は更に一歩進んでいる。これらの鳥は、燃え盛る火に飛び込むと伝えられる「ファイアホーク」として知られており、くちばしや鉤爪で燃える小枝を運び、乾燥した茂みに落として、何もないところにも火を起こす。そして火から逃れようとして出て来た獲物を捕らえるのだ。この「空飛ぶ放火犯」についての話は何世代も前から伝えられてきたが近年の研究で Milvus migrans(トビ)、Haliastur sphenurus(フエナキトビ)、Falco berigora(チャイロハヤブサ)の三種が「放火犯」だろうと言われている。これらの鳥が火を放つということは、12の異なるアボリジニーの部族間で、経験から直接得た知識として伝えられてきたことも明らかになった。

珍しい Firehawk の現行犯写真

しかし今回の火事、家主は住宅損害保険に入っており大きな損害にはならなかったようだった。また住人にも、このような火災被害にあった人間のための州の助成金も支給され皆なんとか生活は続けていけそうだった。

その後住人のほとんどはその周辺に移り住んだようだったが、それっきり会う事のなかった人もたくさんいた。俺達も同じセントキルダ地区の小さなフラットに移り、家財道具の少ない生活を始めたのだった。火事で今まで描いてきた絵を失ってしまったセシリアは、さぞやショックだったことだろうと思う。そのせいかそれからしばらくは以前に比べて元気がなく、なんだか口数も少なくなったように感じた。

俺もなんだか一つの物語が終わってしまったように感じていた。胸の中にぽっかり大きな穴が開いたような気持ちだった。

***

だが、そんな火災騒ぎでバタバタしていたものの、その間にもセシリアは卒業に必要な全ての単位を取り、また卒業制作も無事にこなして無事卒業資格を得ることができたのだった。卒業式当日には、飛行機に乗ってやってきたマリアも出席した。

卒業式が終わり自分の街に帰るマリアがセシリアに、これからどうするのかと聞くと、セシリアは「今、考えているところ」と答えた。俺は大学で働くことが決まっているのだとばかり思っていたのだが、何か他の事も考えているようだった。

マリアが帰った翌日、セシリアはポツリと言った。

All the paintings I've done so far are gone, so I feel like starting from zero somewhere new, somewhere else.  Maybe visiting other countries like you.(これまで描いてきた絵もなくなってしまったので、どこか別の場所で新しく一から始めたい。いっそあなたのように他の国で生活してみたい)

急展開だった。

これまで積み上げてきたものを急に失ったセシリアがそんな気持ちになるのは俺も理解できた。

一緒に行こうという話なのかと思ったが、
How about you?(あなたはどうする?)
と彼女は言った。

俺は即答できなかった。俺はまだこの国でやりたいことをやり終えていなかったし、また一から新しい場所で新しいことを始めることがイメージできなかった。

しばらくして俺の口から出てきたのは I don't think I can.(俺は行けないよ)と言うセリフだった。セシリアは何と言うかなと思ったが、彼女も判っていたような顔で Of course not.(そうよね)と言った。

そして彼女は少し下を向いて考えていたが、顔を上げて俺を見ると「うん、一人で行ってまた戻って来るよ」と言った。

セシリアにとってはきっと良い経験になるだろう。また若い彼女が自分の将来を早い時期に定める気にならないのも理解できた。

しかし、「しばらく離れていてもまたいつか一緒に過ごせる日がくる」と思いながらも、その一方で「離れてしまえばどうなるかわからない」ということもお互いに予感していたと思う。

しかし俺達はそれほど感傷的にならずに、それぞれの道に進むことに決めたのだった。

あの家がある日突然燃えてしまったように、時間をかけて積み上げてきたものもいずれある時期になればちょっとしたことで崩れて行くものなのだと俺は感じた。


つづく

最終話へ

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