この世には地雷というものが存在する(BFC4落選作)
この世には地雷というものが存在することを知ったのは、公共系機関に勤める藤野が勤務八年目、J課に異動になった年だった。
「Sさん、この助成金の計算、たぶん違うと思うよ」と軽くSに言ったことがきっかけだった。広くはないフロアに机が島状に並び、二つ向こうの席の彼女に声を掛けた。前年から主任になった藤野としては、注意も職務の内なものの、呼びつけるのは威圧的な気がして、柔らかい雰囲気で言ったつもりだったが、周囲の空気が緊張した気がした。Sはいきなり立ち上がってやって来て、ひったくるように書類を取り戻し「わかりました」とだけ言うと一切眼を合わさず席に戻った。藤野は間違い箇所を親切心から詳しく説明するつもりだったが、その隙もなかった。唖然としたが、馴れない課で波風を立てたくなく黙っていた。
彼がトイレに立って戻ると、Sは席にいなかった。三十分後、フロア横にある会議室からSが出て来た。続いてその後ろからT課長が出て来た。不思議に思ったが、部下のH君が書類の確認をして欲しいと言ってきたので、それっきりになった。
翌日、いきなりT課長から呼ばれ机の前に立つと「交付通知の様式を勝手に変更したのか」「先月、総務から変更するよう公示がありましたので」「俺はまだ見てない。俺が見る前に変えるな」、見たかどうか他人にわかる訳がなく、あまりに強引な決めつけだと思ったが、厳しい口調に反論できなかった。声を荒げての叱責は十五分も続き、狼狽えていた藤野は遂には怖くなり謝り続けた。H君から昼休みにSがT課長のお気に入りだと耳打ちされたのは、三日後のことだった。
クレイモア地雷…指向性で前面を殺傷する
採用二年目で、まだ女子学生らしさが残るYは、仕事中にスマホをよく弄っていて、話しかけられても止めないことがあった。T課長は自分がそうされても怒ったりはせず、その光景を見て、さすがに藤野も今度は悟って、普段から刺激しないようにしていた。
助成制度の採択発表がある前の週、全員に役割分担があるため手順の説明会があり、担当はH君だった。
「次に受付後の団体の誘導ですが」説明するH君を遮ってYが手を挙げた。「ちょっといいですか。この提出書類の配付役、私になってるんですけど、なぜ私なんですか。別の人の方がいいんじゃないですか」「それはね…」「だいたい、事前に聞いてません。前回はMさんでしたが、よく席にいないことがあって困りました。この制度担当の藤野主任は役割に当たってません。Eさんも去年、手伝うと言いながら、結局、してくれませんでした」
H君が口を開きかけると、T課長が説明書類をテーブルに叩きつけた。「おい、H。事前調整が全然、出来てないぞ。こんな説明は無駄だ。分担も一から見直せ。直したら俺が確認する」翌日、再び説明があり、Yは一番簡単な名札回収係に変更されていた。
跳躍地雷…飛び上がり爆発し周囲を殺傷する
しばらくしてから、藤野は、T課長とSが別々に出張申請書を出しているが、同じ宿泊出張に行っていることを発見し、以来、Sにミスを指摘することを避けるようにした。しかしSの方がそれで終わらなかった。SがT課長と一緒に会議室に入っていった翌日、必ず藤野はT課長に呼ばれた。
「Sに出張ファイルの場所を訊いたらしいが、前にも訊いていたらしいじゃないか。Sが私の話は聞いてくれてないと嘆いていた。部下の信頼を傷付けたんだぞ」「経理処理で質問したら、初めてですぐにわからないと答えたそうだな。わからないと言うのは上司として責任放棄の言葉だ。自覚が足りない」
T課長に呼ばれるのは、遂に三日に一度の頻度になった。
吸着地雷…装甲を破壊するため吸着し炸裂
藤野は迂闊にもMさんも標的になっていることに気付いていなかった。教えてくれたのはH君だった。言われてから注意深く観察するようになり、納得した。気付かなかったのは、T課長がMさんを叱責する時は、必ず密室の会議室だったからで、また、女性のMさんが標的になるとは想像していなかった。地味で化粧っ気のないMさんは、入社して二十年間、ずっとJ課配属で、業務の要の存在として皆から頼りにされ、標的にする意味もわからなかった。
彼は機会があればMさんに声を掛け助けたいと思っていたが、T課長とSとYが揃って離席する隙がなく、そうこうするうちに事態が急変した。T課長が課員を招集し、全員がT課長の机の前に集められた。「先週から休んでいたMだが、人事部から連絡があり、半年間の休職になった」驚きよりもやっぱりという感想しかなかった。一同は周りの同僚の表情を探るように視線を送り合っていた。
「俺も見ていたが、一人で業務をたくさん抱え込んでいた。皆が気を配って助けてやっていればと思うと残念だ。各自、反省してくれ」藤野は絶句した。「Mが休職中、代わりは入らない。皆に責任を感じてもらうためにそうする。半年間、Mの仕事は皆で手分けしてやるように」
誰も言葉を発する者はいなかった。Mの仕事はSとYを除く全員に割り振られ、その日から深夜に及ぶ残業が常態化していった。
対人地雷…死なせず負傷させることで、救助のため部隊の戦力を削ぐ
心底、地雷の恐ろしさに怯えた藤野は、翌年、とうとうパワハラ相談室に駆け込んだが、地雷は敷設より撤去がはるかに困難なことを思い知らされただけだった。
地雷…それ故、悪魔の兵器と呼ばれる