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3月9日で歌われることは、ボクの考える愛そのもの

今年もこの日がやってきた。
と言ってもなーんもしなくても来るし、大抵の場合気付きもしないうちに過ぎ去っていくのだが。

3月9日と言う名曲がある。

2004年3月9日にリリースされ、テレビドラマ「1リットルの涙」の劇中歌にも起用された。
当時僕は中学生で、レミオロメンはクラスでも人気のアーティストだった。

ミュージックビデオのテーマから卒業ソングとして広く認知されているが、元々は3月9日に結婚した友人のために書かれた曲だという。

そう思って聴くと、また印象が違ってくるだろう。
ボクはこの曲のサビで歌われていることが、ボクが考える”愛そのもの”だと思うのだ。

瞳を閉じればあなたが
瞼の裏にいることで
どれほど強くなれたでしょう?
あなたにとって私もそうでありたい
レミオロメン「3月9日」

瞳を閉じると言う日本語が正しいかはさておき、目を閉じる時に浮かんでくる人で想起するのは、やはり愛する人だ。
これを感覚的にピンとこない人は中々いないだろう。

ボクにとって愛とは無償であり、条件付きではない。
対象から何かを得られるから愛している、綺麗な人だから愛している、と言うことはあり得ない。
何も得られなくても愛している、綺麗じゃなくなっても愛している、となるはずだ。

目の前に生身の実態がなければ愛せない、とはなり得ない。
むしろ、生身の実態がなくても、何も変わらず愛している、と言う感覚こそが愛の本質に近い。

また、その人が自分に何かを与えることを条件に、愛するのではない。
むしろ、自分が能動的にその人のことを愛するから、得られるものがあるのだ。

瞳を閉じて相手のことを思うだけで自分が強くなれる。
例えその人から直接何か施しを受けなくとも、自分の心から沸き立つ愛によって強くなれる。

この感覚こそが、愛そのものだと思うのだ。

エーリッヒ・フロムは著書「愛するということ」の中で以下のように述べている。

愛に関していえば、重要なのは自分自身の愛に対する信念である。
つまり、自分の愛は信頼に値するものであり、他人のなかに愛を生むことができる、と「信じる」ことである。

愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである。
エーリッヒ・フロム「愛するということ」

自分自身の愛を本心から信じ、なんの保証もなくとも相手にも愛を生むことを信じる勇気のこと。
これこそが愛の本質なのだと、ボクは思う。

「あなたにとって私もそうでありたい」
たった1行でこれを表現出来ていることに、ものすごい感動を覚えて止まない。




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