肯定と否定のあいだ、加減が難しい。
多様な個性、多様な価値観を認め合いたい。
そう思うのだけど、現実にはなかなか難しいこともある。
私は、多様な仲間とミュージカルを作り上げる体験を通して、自分とは違ういろんな個性を認められるようになり、大きく成長できた。1ヶ月ほど前までそう思っていました。
しかし、このコロナ禍の中においては、人間の良い面も、悪い面も、普段よりはっきりとした形で見えてきています。
良い面はいいんです。素直に素敵だと思えます。しかし問題は悪い面。
例えば、全国に緊急事態宣言が出ている中、自粛の息苦しさから逃れるために、医療体制の脆弱な地方に旅行に出かける人がいたとする。
私個人の考えでは、これはありえないことです。
地元の人のことを考えてない、目の前の快楽しか考えられないのか、いまだに他人事でしかないのかなど、その人の行動を否定する言葉はたくさん思い浮かびます。
でも、そのことを責めたところで、私からしたらありえない行動を取るその人は行動を改めるのか?
おそらく、責められていると思ったその人は反発したくなる。結果、聞く耳を持たず遊び続けるでしょう。
それに、口に出して批判をしなかったとしても、その人に対して悪い感情を持つことは、自分の心をチクリと痛めるのです。
じゃあ、その人のことを悪く思ってはいけない、どんな人であっても肯定しなければならないのか?
そんなことはないはずです。
自分や周りの人の命を守る行動を取ることが大事なのはたぶん間違いないことだし、自分自身の「なんか嫌だなぁ」という思いに背を向けて、無理に相手を肯定しようとするのも、違うと思います。
ならばどうするのか?
到底受け入れられないことがあったとしても、肯定するでもなく、否定するでもなく、ただ存在することは認める。
受け入れるではなく、受け止める。
その上で、自分ができることをただやる。
何ができるのかは、人や立場によって様々です。先ほどの自粛から逃れて旅行に行ってしまう人の例なら、「施設を閉鎖する」「観光地付近でパトロールをする」「不安を取り除く心のケアをする」「家で一緒に楽しむ」「誘われても一緒に出かけない」・・・ほかにもたくさんあると思います。
受け入れられないようなことって、つい拒否感が前面に出てしまう。
なかば反射的に気持ちが動いてしまって、対象を否定する方に気持ちが向いてしまいます。
しかし、嫌だからといって、存在そのものを否定しても、何も解決しません。
だから、そのことの良し悪しは別にして、存在自体は一度認める。
わかっていても、難しい。つくづく思いますが、できるようになりたいなと思う今日この頃です。