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#29 サボる勇気

時計のアラームが鳴ったのは午前6時半だった。いつもなら、布団から出たくないという葛藤と戦いながらも、冷たい床に足をつけ、歯を磨き、顔を洗う。それが日常だった。けれど、今朝は違った。

「今日は、もう無理だな」

布団に潜ったままスマートフォンを手に取り、会社の勤怠管理アプリを開いた。普段なら有給を使うことに抵抗がある。業務が滞る罪悪感や、同僚に迷惑がかかることを考えると、ためらってしまうのが常だった。しかし、今日だけは理由もなく「やめたい」と思った。その衝動のまま、有給休暇申請のボタンを押した。

「こんなこと、していいのか……?」

布団の中でしばらく罪悪感と向き合ったが、会社から「申請承認」の通知が来た瞬間、肩の力がふっと抜けた。現実感が薄いまま、体を横に伸ばし、再び目を閉じた。


気づけば午前9時を過ぎていた。いつもなら慌ただしく仕事のメールをチェックしている時間だ。代わりに、台所でゆっくりと湯を沸かし、紅茶を入れた。カップから立ち上る湯気をぼんやりと見つめながら、自分が何をしているのかを再確認した。

「これが……自由ってやつ?」

窓を開けると、冬の冷たい空気が部屋に入り込んできた。いつもなら通勤ラッシュの喧騒が漂ってくる時間だが、住宅街は驚くほど静かだった。風に揺れる洗濯物の音と、近所の家から聞こえる子どもの笑い声だけが響いていた。普段なら感じる余裕のない生活の一端に触れた気がして、胸が少しだけ温かくなった。


「せっかくだし、どこか出かけてみるか」

普段着のパーカーにジーンズを合わせ、無造作にマフラーを巻いて外に出た。近所の公園を歩いてみると、朝の陽射しが優しく地面を照らしている。ベンチにはお年寄りが腰掛け、新聞を広げていた。遊具では幼い子どもたちが無邪気に走り回っている。平日のこの時間帯に、こんなに穏やかな空間が広がっているなんて、想像もしていなかった。

ベンチに腰を下ろし、ポケットからスマートフォンを取り出してみる。メールやチャットの通知は意外なほど少なかった。誰も自分の突然の有給取得に怒っていないらしい。むしろ、気づいていないのかもしれないとすら思えた。

「あの毎日の忙しさは、なんだったんだろう」

そう思いながら、すぐ近くのカフェに立ち寄った。いつもなら週末に長蛇の列ができている人気の店だが、平日の朝は空いていた。窓際の席に座り、たっぷりのミルクが入ったラテを注文した。

本棚から借りた本を手に取り、ページをめくる。内容は何気ないエッセイだったが、今の自分の心に妙にしっくりきた。


午後になり、帰り道を歩いていると、心のどこかで「明日からまた頑張ろう」と思える自分がいた。有給を取ったことに対する後ろめたさはまだ少し残っているが、それ以上に、今日は自分を取り戻すために必要な時間だったような気がした。

「たまには、こういう日があってもいいよな」

そう呟きながら、いつものアパートの鍵を回した。部屋に入ると、朝に感じた罪悪感は、もうすっかり消えていた。

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