「サマースプリング」公演に寄せて 立川貴一
三野くんとはじめて一緒につくった作品は、サミュエル・ベケットの「film」を原案とし、彼が演出した「Prepared for Film」という演劇だった。
論文のような文章の大群、そこに多少の台詞がある、それが当時の彼の台本だった。
「これは、犬です」
「これは、猫です」
「これは、花です」
「これは、鳥かごです」
「これは、オウムです」
「これは、カーテンです」
「これは、窓です」
犬なら犬の、猫なら猫の、写真。
もしくは、そうとも見える何かの写真、それらを指し示していきながら、最終的には、実際に舞台上にある「これは、椅子です」に着地する。
というような冒頭の作品だった。
三野新は、写真を、何かの、そのものとして扱う。
演劇において観客と構築する、ままごと的な共通認識の作業の中に写真を持ち込んだ。
初めて台本を読んだ時、
こいつは何を言っているんだ…と思った。
これ(写真)は○○なんだと言えば、それは、何が切り取られたこれ(写真)でも、○○となる。
無くなってしまったものも、存在させられる。
人、景色、時間など、切り取られたものをそのまま。
滅茶苦茶な願い、祈りだと思う。
でも、ぶっちぎりの思いを持って、彼は祈っている。
だから僕は、彼のやり方をとにかく信じて、お互いの中身のために、一緒に願ったり祈ったりしたいと思えた。
僕が三野新と数年来関わってきて思ったことは、そんなところ。
いつかは触れることが出来た情報だったが、切り取られてしまえば圧倒的な距離が生まれる。
圧縮された、という面では、僕の解釈の上での戯曲に、写真はとても親しい存在だったのだなと、結果的に思っている。
(結局、形なんてなんでもいいのだ。楽譜でも、料理でも。)
カメラ越しに撮られた実際に存在するものが、別の何かや誰か、何処か、何時かに、変貌する。
平面に切り取られた現実が変貌した時の強靭さと不可思議さを、僕は忘れないだろう。
三野くんは、このような写真の扱い方にとても自覚的だと思う。
それが沁み込んでいる彼の撮った写真が必要だと信じて、声をかけたのでした。
サマースプリングはもともとは小説で、吉田アミが高校生の時に書いたらしい。
小説も、圧縮率は違っても、やはり圧縮されている。
サマースプリングに圧縮された祈りを、解凍したい。
解凍場所が自分の肉体であるのは、3年-4年ぶりの作業だけど、きっとうまくいく。
大切に、丁寧に掬いあげて、みんなで一緒にぶっ放したい。