『サマースプリング』あとがき
泣くほど嫌ないことを何故、書かねばならなかったのか
発表するつもりはなかった。
理由はあとからいくらでもついてくる。でも、書きはじめた時には理由はなかった。ゴールも目的もないままで、ただ、書いて、読む、そして思い出し、エピソードを追加して、また書いて、読んで、思い出して…という作業を密かに10年(!)も続けていたのだ。その行為は癒されるためでも、誰かを許すためでもない。ましてや自分を救うためでもない。そんな目に見える「効能」を求めて書いたわけではない。一人の少女の妄想をその少女の当時の言葉そのままに記録すること。それだけを目的に書いたのだ。書かなければ、ならなかった。それだけだ。
だから、原稿を読んだ太田出版の編集者には「こんなものは小説ですらない。散文だ」といったん、無下にされた。当たり前である。そんなことは言われなくてもわかっている。そもそも、この原稿は誰にも見せたくないくらい嫌なのだ。読み返したくもない。この世に存在などしていて欲しくはない。こんなものを出す必要はないのだ。出すほうがおかしい。神経がどうかしている。泣くほど嫌なこの本を私が無視できないのは何故なんだろう? 封印して、記憶から抹消してしまえばいいのに。止せばいいのに、大人の私はもっと、ひどい。一番、残酷なことを選択しているのはいつも自分自身だ。自業自得。楽な道と、苦しい道があるなら迷わず、苦しいを選ぶのは創作という病。普段、まともな頭のときには配慮できること考えられることがすべておざなりになっていく。その先にいて、私が直視したいのは自分ではなく、「あなた」だ。そう、今この本を手にとっている「あなた」に向けて書いたのだ。
激しい感情や自意識、エピソードの鮮明さの理由は経験から文章化するまでのスパンの短さを意味する。今となっては理解しがたい行動や考えこそ、そのままに残した。削ってしまうことで、過去の自分の感情を整備するような甘いことは慎んだつもりだ。当時の自分さえも目を背けた部分をえぐりださなければ、「あなた」は納得しないだろう。過去の自分を救ってあげるなんておこがましい。むしろ、殺しにかかるくらいの凶暴さで過去の自分と対峙なければならなかったのだ。
だから、私は自分をかわいそうな被害者だとは思わない。かわいそうな被害者だと思いたがった「アタシ」をかわいそうだと思う。
世界を見渡してみればこの本の主人公の些細な不幸などたいしたことがないだろう。些細なことで悩むな、もっと不幸な出来事はいくらでもある。…なんて言葉が今、苦しむ人間への救いになるか。本人にとってはその些細な出来事が何事にも変えがたい不幸であるのだ。絶望というのは感じる本人にしかその色の濃さはわからない。わかるフリをするのは簡単だ。だまって、頷いていればいいだろう。自分の弱味を他人に話して、理解などされたいか?表面上の優しい言葉が必要か?そんな程度で癒される絶望など絶望ですらない。共感も哀れみも要らない。知っていれば沈黙するはずだ。そして、沈殿した気持ちは腐っていく。それでいいのだ。
それでいいわけがないだろう。何を自己完結しているの?
過去が気に入らないのなら自分で捏造しろ。すべて塗り替えろ。自分で事実を変えられないと諦めるな。自分で決めたルールなど何度でも更新しろ。約束なんか破ってもいい。何度でも約束し直せばいい。はじまる前に決めたルールを一生守ることなんてない。逃げ道は何処にだってあったのだ。その道を見つけられずに一番、残酷は方法を選んだのは自分自身なのだ。選んでない? バカな。それは単に、選ばなかった、という選択を選んだだけだ。
現実を直視しろ。妄想に逃げるな。叩きつけられるのは世界の広さを知ってからで良い。逃げてもいい。甘くてもいい。できることをだけすればいい。
明日考えればいいことは明日考えましょう。深刻に考えないで。大人になるのは楽しいですよ。たかがそんなことで、クヨクヨしてないで次、行ってみよーって思えるいい加減な大人はとっても楽しいです。
そんなわけでどんなに残酷なことがあってもそれは一過性の夏みたいな症状で多角的に物事を見れるようになると悲劇は喜劇に。残酷は滑稽に摩り替わるものです。でも、理想を目指すにはちゃんと現実を直視しなくちゃね。わたし、薔薇の木のこと本当は大好きだったのよ。
過去に。未来に。全ての人に、ありがとう。
そんな心境になれるのは悪くないです。むしろ、好い。
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