【物語】セミの抜け殻
うだるような暑さが続く。ちょっと外出しただけで額に、頬に汗がにじむ。通学路を歩くことほどしんどいことはない。あとは体育も最悪。すぐに汗で体操着はベタベタになるし、髪の毛も顔中に貼りついて本当にうっとうしい。こんなクソ暑い中運動させるなんて、大人は一体何を考えているんだろう?そんな愚痴を心の中に吐きながら、僕はとぼとぼ帰り道を歩いていく。
小学6年生の夏休みを迎えた。周りのクラスメートでガリ勉のやつは中学受験がどうとか言ってるし、いつも机に向かっている。この夏が勝負だ!って親や先生達からの重圧に耐えながら勉強し続けてる。僕には到底できない。この学年になって勉強はますます難しなってきた。特に英語がヤバい。僕はアルファベットで単語の綴りを覚えるだけでも精一杯。文法問題とか出題されたら、もうお手上げ。英語だけじゃなく、国語も算数も微妙。理科や社会もなんだかしっくりこない。
今日の終業式で1学期の通知表が担任のダサトーから手渡された。ダサトーの本名は佐藤なんだけど、服装がいつもダサいジャージだから陰でクラスのみんなからダサトーって呼ばれてる。恐る恐る中身を見てみると、予想していた通り惨憺たる結果が記されていた。ちなみに評定基準はこうだ。A、B、C、D、Eの5段階評価。Aになる程、成績は良い。そして、僕の成績は…国語: B、算数: E、英語: E、理科: D、社会: E。うわぁ…、最悪だ。「E」が3つもついちゃった。母さんに叱られるのは確定だな...。思い出してまたため息を1つついた。ダサトーは顔をしかめて僕にこう忠告した。
「中学に上がるともっと勉強は難しくなるぞ。田上は夏休みは宿題に加えて苦手教科の復習をきちんとやりなさい」
「は、はい…」
視線が上げられず、うつむいたまま足を引きずるように席に戻った。
そこから先生が話した内容は、夏休みの過ごし方とか事故に気をつけろだとかの注意事項だったけど、全然頭に入ってこなかった。
あぁ。成績のことを考えるとまた気分が鬱蒼としてきた。夏休み、どうやって過ごそう。塾通いは避けられないだろうな。いやだなぁ。いや、勉強をしなきゃいけないのは分かってるけど、どうにも乗り気じゃない。そもそも、大人たちはよく「成功するために勉強しなさい」とか「自分が幸せになるために勉強をするんだよ」とか言うけど、本当にそのとおりだろうか?勉強ができれば勝ち組、成績が悪かったら負け組。この固定観念というか、ねじ曲がった方程式は事実なのかな。頭が悪くても世の中で活躍している人は少ないのか。そもそも、世の中の勝ち組、負け組ってどういう仕組みで決まっているんだろう?そんなことを悶々と考えていた僕の背後でダッシュ音と雄たけびが耳をつんざいた。
「けーーーーーんとーーーぅ!!ここにいたのかぁーーーー!!!」
声の主は僕の隣に勢いよく猪突猛進して、上手い具合に足でブレーキをかけた。漫画のオノマトペやテレビアニメの効果音が今にも聞こえてきそうな感じで。
「うん。やっほー、ボブ。明日から夏休みだね」
「なにが『明日から夏休みだね』だ!健斗、お前、俺との約束すっぽかしたな!このヤロウ!」
ボブはずり落ちたメガネを右手で直して、思いっきり僕に顔を近づけた。こうして至近距離で迫られると結構迫力がある。後ずさりをして、あまり目を直視しないようにする。相木亮介、通称ボブ。スポンジボブみたいなクリッとした瞳とトレードマークのメガネが印象的だから、クラスメートにボブと呼ばれている。4年生の時からの親友だ。
「約束…?何かすっぽかしちゃった?僕」
急いで思考回路を組み立てるが、約束の「や」の字も頭の中に出てこなかった。僕の困った顔を見て、ボブは頬を膨らましながら言った。
「なにぃ?忘れたのか?さんかく神社周辺でセミの幼虫を捕まえて、今年こそは羽化をみるぞって決めただろ。ほら、おまえの分の虫かごも持ってきてやったぞ。行こう」
ボブのムチッとした腕が伸びてきて、虫取りセットが押し付けられた。
「あ...あぁ、そういえばそうだったね。ごめんよ、完全に忘れてた」
「もう、忘れんなよ。男同士の契りはそう簡単に破っちゃいけねぇ」
ドラマのセリフのようなことを吐き捨てたボブはくるりと踵を返して、さんかく神社の方へズンズン進んでいった。僕も遅れまいと慌てて後を追う。
さんかく神社は結構大きい神社で、年末年始は多くの参拝客でごった返す。僕は願掛けとかお参りに興味がないから滅多に行かない。立ち寄るのはこうしてボブと秘密基地ごっこや木登り、虫取りをするときだけ。神社の敷地内の中央にはでっかいブナの木が立っていて、セミの幼虫はその根本を注意深く観察すると見つけられる。通学路の反対方向を進むと10分以内には神社に着いてしまう。
「よし、着いたぞ。俺は紙垂が巻かれている方を中心に幼虫を探す。健斗は裏に回って土の中に潜んでいるヤツを探し当てるんだ」
到着するや否やボブは意気揚々と土の中に両腕を突っ込み、ブルドーザの如く土を掘っていった。僕もそれに倣い、奥に回り、手で少しずつ土の表面を削っていく。
ブナの木は大樹だから生い茂る葉っぱが庇の役割を果たしてくれる。おかげであんまり暑さは感じなかった。ブナの木以外にも巨大な樹木が辺りにそびえ立っている。
地中にはいろんな虫がうじゃうじゃ動いていた。ミミズやナメクジ、ダンゴムシなんかもいた。手を一定の速度で動かし、土を少しずつ掘りながら僕はボブに話しかけた。幹の向こう側にいるから少し大きめの声で。
「ねぇ、ボブ。本当にこの土の中からセミの幼虫見つけられるのかな?」
「見つけられるのかな?じゃなくて、『見つける』んだよ!俺は今年の夏こそ絶対にセミの羽化を見るんだ!そんで3組の聡子ちゃんに抜け殻をあげる」
「ええー!聡子ちゃんって、あの聡子ちゃん?」
「森川聡子以外に誰がいるんだよ。あの子、セミの抜け殻コレクターなんだってさ。変わった趣味だよな」
「ぬ、抜け殻コレクターかぁ。確かにちょっと奇抜だね」
「だろ?でもただ単にプレゼントするんじゃないぞ。セミの抜け殻をきっかけに仲良くなって、いつかあの子の住む豪邸を偵察するんだ」
「へぇ…。聡子ちゃんは財閥のお嬢様でお金持ちだからねぇ。ボブはすごいなぁ。そんな風に積極的になれて。…こ、告白とかするの?」
「アホか!告白が目的なんじゃない。偵察だよ!て・い・さ・つ!!最終的にはあの子のお近づきになって、毎日のように豪華なスイーツをご馳走になるんだ!」
そうだ…。ボブは美食家で、おいしいものにしか目がなかったんだ。忘れていた。
「お前も初めてなんだろ?セミの羽化を見るの」
「うん。見たことはないね」
「よし、じゃあセミの羽化、絶対一緒に見るぞ!」
僕と一緒にセミの羽化見たさで、ボブの土掘る手にどんどん勢いが増す。こちらからはどんな風に掘っているかは見えないけど、土が尋常じゃない高さまで飛んでいる。僕も負けじと掘り続ける。掘って、掘って、掘って…。と、手に何かが当たる感触がした。ん…?これはもしや…。土をかき分けるスピードを緩めてゆっくりその「何か」を掬い上げた。正体はまさしく、探し求めていたセミの幼虫だった。
「見つけたよぉー!!幼虫だ!」
「マジかーーー」
ボブは目をキラキラさせて僕の方に走り寄ってきた。
幼虫は結構デカくて、のっそりのっそり僕の手の上で這いずり回ってる。なかなか気持ち悪くて、直視しないようにした。ボブはというと僕とは真反対の反応だった。
「すげぇ!すげぇ!!これが成虫になって、茶色になるんだろ?しかもコイツ、めっちゃサイズデカいじゃないか。抜け殻渡したら、聡子ちゃん喜ぶだろうな。よし捜索第二弾始めぇ!もっと幼虫見つけてやるぞ」
くるりと180°回転するとボブはまた幹の向こう側に行こうとした。阻止するべく、肩をむんずと掴んだ。
「ボブ、ボブ。もう2匹目はいいよ。この幼虫の抜け殻は君にあげる」
「へ?」
「だから、僕は抜け殻いらないからさ。羽化したら、聡子ちゃんに抜け殻渡しなよ」
「本当にいいのか?! 健斗、サンキュッ!」
「うん。聡子ちゃんのお家偵察の夢、叶うと良いね」
「おっしゃ!」
「ところで、この幼虫の羽化はどうすれば見れるんだろうね?」
「まずは、虫カゴに入れないとだな」
僕とは違い、慣れた手つきで幼虫をそーっと虫かごに入れるボブ。すごいなぁ。僕なんて、手のひらをウロチョロされるだけで手汗をかきそうなくらいなのに。
虫カゴに囚われてしまった幼虫は出口を探そうと色々動き回ってたけど、すぐに大人しくなった。
「これであとは羽化の瞬間を見守るだけだね」
「だけどそれがいつなのか分かんねぇのが問題だな」
ガシガシと頭を掻きながらボブはつぶやく。
「あ!そういえば、僕ちょっと前本屋に行ったとき昆虫図鑑を買ったよ。セミの羽化情報も載っているかも」
「そういうことなら今度はお前の家で調査だ!その名も羽化観察団のミッション調査!」
「よし、行くぞー」
僕らは全速力で田上家へとダッシュした。
「よっこらせ」
どかっと畳にあぐらをかきながら、僕らは昆虫図鑑を開いた。その図鑑は結構分厚くて百科事典の昆虫バージョンみたいな本だった。目次を開いて「セミ」の項目を調べる。
「あった。142ページだね」
「ラジャー」
142ページを開くと、たくさんの種類のセミがカラー写真で写っていた。アブラゼミ、ミンミンゼミ、ニイニイゼミ、ヒグラシ、ツクツクボウシ、クマゼミ…とにかく種類が多くて驚きを隠せなかった。
「あ、ここ!見てみて。【幼虫】の説明文。『土の中に潜った幼虫は木の根から汁を吸いながらゆっくりと5年かけて成長します』、だって!ひえー。このサイズになるまでに5年もかかるのかぁ。長すぎてくたびれちゃいそう」
説明文を指さしながらゆっくりと声に出して読んでいった。ボブもすかさずこう言った。
「それだけじゃないぞ。見ろ!『成虫はわずか7日ほどしか生きられません』だってさ!たったの7日?!短すぎんだろ。うわー、俺、人間で良かった」
儚いセミの一生を目の当たりにし、正直な感想が口から出てきた。そりゃ、そうだよね。1週間しか生きられませんなんて言われたら、僕だったら泣いちゃう。でも…。
「俺さ、思ったんだけどさ。セミってかわいそうだよな。7日しか生きられないなんてさ。もっと人生をパーッと楽しめないのかね、セミの連中たちも」
「うん…。それは真っ当な感想だよね。でも…」
「うん?」
「セミだけじゃなくてそれって人間にも同じことが言えるよね」
「俺らにも?そりゃ、どういうこった」
「ほら、朝いつも通りお仕事とか学校に出かけて行ったけど、交通事故で死んじゃうとかさ。あとは病気で早くに命を落としてしまったり。つまり、何が言いたいかというと、僕らの命もどうなるか分からないんだよ。明日死んでしまうかもしれないし、もしかしたら90歳くらいまで生きるかもしれない」
「あー。要するにセミも人間も生きとし生けるものとして命を全うしたいけど、どうなるかは分かんない ってこと?」
神妙そうな面持ちでボブは僕の顔を覗き込んでそう言った。
「うん。そんな感じ。…なんか、ちょっと暗い話しちゃったね。ごめん」
しまった。せっかくの羽化観察団のミッション遂行中なのに。水を差すことを言っちゃった。
「いや、でもちょっと分かるぞ。お前の言いたいこと。俺もたまに考えるもん。人は何のために生きるのかなー、とかあとは死んだらどうなるのかなぁとか。そういうのは大抵、一人でいるときに考えちまう」
「分かる。ダサトーの話聞いているときとか、ボブとこうしておしゃべりしてるときは全然そんなこと考えないのにね。夜寝るときとか思い巡らしちゃうなぁ」
「どうなるんだろうな。俺ら」
「うーん、分かんないなぁ。僕なんて中学生の自分像も上手く描けないよ」
「それは大いに同感。もう中学に上がるまでに1年ないのにね。お前はどんなになりたい?将来」
ボブが興味本位といった感じで聞いてきた「将来」という言葉の重みが、ズシンと心にのしかかる。
「見当もつかないよ。僕なんて勉強もできないし、やりたいことも特に見つかってないし…」
「俺も同じようなもんだぜ。通知表の成績、最悪すぎてどぶ川に捨てたもん。母ちゃんに見られたくなくて」
「捨てたんだ…」
「あぁ。捨てた」
重い沈黙が流れる…。僕があんな変なこと言っちゃったから。何とか話題を楽しい方へ変えないと!
「そういえば、どうすれば羽化を見れるんだろうね」
「おっ、そうだそうだ。羽化観察団のミッションはこれからだ!図鑑には何て書いてある?」
「えーと…。『カーテンレースなどに幼虫の足を引っかけて安定させます。時間は定かではありませんが、夕方6時から9時ごろがピークと言われています』だってさ」
「おおぅ…ろ、6時って。あと5時間ぐらい待たなきゃダメってことか。長いなぁ~」
「でも、見てみたいなぁ。羽化の写真、結構すごいことになってるよ」
写真は、茶色い抜け殻から薄緑の生まれたてほやほやの成虫が顔をのぞかせている様子が写っていた。エメラルドグリーンの絵の具で塗られたような羽の色が綺麗だった。
「この世のものとは思えない色だな。CGか何かで描いたイラストみたいだ」
「でも、ちょっとグロテスクだね。これがあの真っ茶色のセミに変わるのか。信じがたいけど、見ればわかるか!」
「よし、じゃあ18時まで寝るぞ!お休み~」
僕らは幼虫をカーテンレースに慎重に引っかけて体勢を安定させることに成功した。
★★★★5時間後★★★★
「...と。け…と。けんと!」
「ふぇッ?!」
力強く肩を揺さぶられて目が覚めた。ここは…どこだ?あ、そうだ。自宅の和室だ。確かボブとセミの幼虫取りに行って、それで…。
「あ!!そうだ!羽化は?!」
「ちょうど始まったぜ!俺もさっき起きたところ!」
時計は18時20分を少し過ぎていた。抜き足差し足でカーテンレースに近づいた。茶色い幼虫の蛹から薄緑の新しい体が出てきた。少しずつ、少しずつ。実物は写真で見るよりかなり綺麗で、色素もとても薄かった。透けて見えるような感じ。ゆっくり、ゆっくり新しい体が幼虫の蛹から出てくる。時間をかけて、自分の力で。
「なんか...。感動するね」
思わずそう言った。
「あぁ。こんなちっこいセミでも懸命に生きようとしてる感じが伝わってくる」
「僕も…」
「俺も…」
同時に零れた。
「頑張らないと」
そしてこの言葉をハモッた。
「確かに僕たちはどこへ向かって歩みを進めるのか分からないことの方が多い。でも…」
「ああ。諦めてしまったらそこで終わりだし、諦めたらだめだ」
「怖いけど、未来を恐れる気持ちはゼロにはならなかもしれないけど。でも、やっぱり希望はすぐそこにあるよね」
「たぶんな。希望はすぐそこに」
僕らは顔見合わせて微笑んだ。ちょっぴり蒸し暑くて汗と夕闇の匂いがした。
翌日、セミの薄緑の体は茶色く変色して、「成虫」になっていた。抜け殻はそのとなりにちょこんとレースに引っ掛かっていた。
ボブはそっと手のひらにセミを乗せて、窓辺から逃がした。そっと手を動かしたタイミングで空高く、元気よくセミは飛び立っていった。
「元気でね」
「頑張って生きるんだぞ」
思い思いの言葉をセミに声かけた僕たちに残されたのは、セミの抜け殻。そして、ほんのちょびっとの灯だ。それはこの2日間であのセミから教えてもらったこと。前を向いて歩いてみようかな。そう思わせてくれた、大切な夏の記憶。
抜け殻は結局、ボブは持ち帰らなかった。僕が持つべきだと言って譲らなかった。今ではちっちゃなブリキの箱に入れてお守りみたいにしている。希望を思い出すための大切なお守りに。
(完)