20+X

 「あなたのお子さんは、3歳まで生きられるかどうか。それを乗り越えられたとしても、20歳までは生きられないでしょう」


 当時20代半ばだった両親が、初めて生まれた我が子と対峙してややしばらく。これから明るい生活を送るはずだった彼らが受けたのは、これ以上ないほど残酷な宣告だった。31年前に生まれた私の寿命は、3歳だった。

 

 何度も呪文のように刷り込まれてきたその言葉。私に物心がついた時にはすでに3歳という一つ目の関門を越えていた。当時のことはよく覚えていないが、適切な医療機関と繋がれたことが大きかったのだろう。

 「でも3歳で死ななかったしさあ、きっとハタチ過ぎても生きてるんじゃない?」

 幼少期の私は底抜けにポジティブだった。母や祖母が時折繰り返す例の宣告に対しても、のんきにこう答えていたように思う。といいつつも、小学校高学年になるまで風邪をひいては肺炎をこじらせ、保育園や学校を休むことが多かった。命の危機を何度も経験していたその頃、死は寄り添うほど近くにあった。

「あんたは長くなんて生きられないんだから、細く長くじゃなくて、太く短く生きなさい」

 母から言われた言葉。本当に大切なものや人に囲まれて、やりたいことを最大限やっていれば、たとえ短い人生でも満足に生きられるだろうという意味らしい。この言葉は、今の私の考え方に大きな影響を及ぼしている。命の危機をいくつも乗り越えた私は、リスクに直面することへの耐性も手に入れてしまったようで、「やれることはとにかくやろう、死ななきゃ安い」と、ブレーキの壊れた生き急ぎ人間になってしまった。
 話はそれたが、家族は私にたくさんのことを経験させてくれた。当時、重度の障害者は施設か養護学校に行くことが当たり前だった中、保育園と小学校は普通学級に通い、学校行事も様々な工夫をして最大限参加した。私は、普通の子供のように成長していった。

 いつの間にか当たり前になっていた、生きていること。母があの宣告の話をしなくなったのは、いつからだろう。

 

 小学校5年生の頃、母は家を出ていった。ずっと前から両親の仲が悪くなっていたが、遂に離婚したらしい。11歳離れた末の弟が、まだ歩き始める前のことだった。父と私たち3兄弟だけになってしまった家。父は仕事に忙しく、赤ん坊の末の弟は祖母に預けられた。私と、同じく病気の2つ下の弟は、父が帰るまでヘルパーさんに食事など最低限の身の回りのことを頼みながら生活していた。ちょうど小学校卒業後の進路を相談している最中だったが、地域の中学校への進学は絶望的になってしまった。学校や役所との交渉は、母が行っていたから。家族の不和と未来への不安で、私の心は壊れ始めていた。

 これまでも定期的に検査や両親の休養のため入院していた専門病院に、2個下の弟と共に入院することが決まった。そこには、私と同じような重度の障害のある人が長期にわたって入院している。修学の問題や家族介護の負担から入院することが多いらしい。父からは要領を得ない理由を聞かされてはいたが、今回の入院は恐らくどちらの理由にも当てはまっていたのだろう。入院は私の小学校卒業後とのことだった。でもいつまで? やはり父は明確な返答をよこさなかった。

「お前は捨てられたんだ」

 入院初日の夕飯の時間、どういう話の流れか食事介助に入っていた看護師にそう言われた。出ていった母と私たちを入院させた父の顔が浮かび、その看護師に言い返すこともできないまま、ただただ泣いた。私はここから、死んだように生きる日々を送ることになる。

 結論からいうと、入院生活は14年間に及んだ。中高は病院に隣接する養護学校に通い、卒業後は院内で細々仕事をしたり、しなかったり、適当に過ごしていた。入院生活は、控えめに言っても人間としての生活ではなかった。
 何をするにも職員や医師の顔色を伺い、共用の衣服を着て、毎日決まったスケジュールで寝起きする。決まった時間以外にトイレをしたいと言うと、怒られてしまうこともある。自分の生活の何かを自分で決める余地は、ほとんど残っていないような環境だった。心は死んでいたが、皮肉なことに健康状態は入院前よりも随分良くなった。

 20歳と言われていた人生のタイムリミットを、あっという間に追い越していた。

 

 いろんな経験をしたい。たくさんのものを見て、触れて、感じて生きていきたい。そう思い、様々な人の協力を得てなんとか退院してから、早4年。30歳を過ぎた現在は、仕事や結婚といった"人並みの悩み"を抱えながらのびのびと暮らしている。30年少々の人生だが、私にとって今この時はボーナスタイムのようなものだ。本来20歳で終わる予定だったものが、すでに1.5倍の長さを生きているのだから。
 だがここで終わるつもりはない。病院での14年間にできなかったことを取り戻したいし、やりたいことはまだまだある。母は「太く短く」と言っていたが、どうせなら「太く長く」生きてやろう。私のXが分かるその時まで。


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大学院の課題
学生同士がチームを組んで、それぞれテーマを決めて書いたものでした。
私のチームのテーマは「生きる」。

頑張って書いたので、掲載しておきます。

吉成亜実


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