私本義経 戦後
一ノ谷後
範頼兄上は鎌倉へ戻られた。
私は京に留められ、洛中の治安維持にあたることになった。
京周辺国の、在地武士の組織化等の地方軍政を行うかたわら、寺社の所領関係の裁断等の民政にも関わるようになった。
顔も名も売れたが、やることは同じ。
飢饉も終わっていないので、戦に関わってないときは炊き出しも極力やるようにしていた。
六月、朝廷の小除目が行われ、範頼兄上ら、源氏の者が三人、国司に任ぜられた。
頼朝兄上のご推挙によるものだった。
あれ?と思ったが、まあ気にしないことにした。
誉めてもらいたくて戦ったわけではない。
ないけど…
平氏はいまだ瀬戸内にある。
平氏は安徳天皇だけでなく、三種(みくさ)の宝物(たから) ~八尺瓊の曲玉、八咫鏡、草薙剣~までも持ち出した。
祭儀が行えぬため、今上の践祚の際には大変な屈辱を味わったという。
我々源氏は是が非でも、それら宝物を平氏から取り戻さねばならないのだ。
範頼兄上が戻られたら、一緒に出陣もあるだろう。
鍛練、準備に余念なく過ごしていた元暦元年(1184年)七月。
なんと陸住まいの平氏が乱を起こしたのだ。
三日平氏の乱
あなたがたの時代では、
三日平氏の乱
と呼ばれているらしいこの反乱は伊賀、伊勢で特に凄まじかった。
七日辰の刻(午前八時頃)に平家継を大将軍とする陸住まいの残存平氏が暴れ、三月に伊賀の守護に補任されたばかりの大内惟義が襲撃された。
郎従が多数殺害されたという。
伊勢では平信兼らが蜂起、鈴鹿山を切り塞いだといい、院や公家衆はたとえようもないほど動揺したらしい。
武蔵国の御家人、大井実春が陸平氏討伐のため伊勢に派遣され、十九日には近江国にて鎌倉軍(官軍)と平氏残党とが相まみえた。
家継が討ち取られて梟首され、侍大将の富田家助、家能、家清入道(平宗清の子)らも討たれたが、平信兼や藤原忠清らは行方をくらましてしまった上、官軍は死者数百騎に及ぶ大きな損害。
そしてその中には、頼朝兄上の股肱の忠臣、佐々木秀義の命もあった。
宇治川での、若武者の名乗りが蘇る。
我こそは宇多天皇から九代目の後胤。
佐々木三郎秀義の四男、佐々木四郎高綱…
あの者の、父…
頼朝兄上は激怒した。
なんとしても信兼狩り出せ!
蜂起した平氏の中でも最も有力な生存者である信兼を、狩るとすれば囮は…
八月十日。
私は信兼の子息三人、我が邸宅に呼び出し、斬った。
それでも信兼は出てこない。
八月十二日。
信兼討伐に出撃。
ちょうどこの六日前、私は後白河法皇より、検非違使に任じられていた。
位は左衛門少尉。
これはかなり張り切れる出来事で、郎党と私は伊勢国滝野の城に、百騎ほどの信兼軍を見出すことができた。
乙女の膝を無理やり割るような悪辣さで、私は散々に彼らを殲滅した。
私の中になにやら酷く殺伐としたものがある。
それはもともとあったものか。
新たに形作られたものなのか。
私にはもうよくわからなかった。
それでも地球は回っている