私本義経 二年(ふたとせ)①
文治二年秋
知った土地。
知った空気。
とりあえず、ここには兄者は来ぬ。
というか、兄者はあの黄瀬川以来、結局尻を動かしてはおらぬ。
結局動くのは御家人で、嬉々として動くのは梶原である。
ああ、舅も動いた。
北条時政。
兄の名代として、千騎率いて入京、関東申次・吉田経房を通じ、私や叔父上らの追捕のためとして、「守護・地頭の設置」を“認めさせ”たという。
そう、“認めさせる”。
いつから武家が、院や今上を従えることになったのだろう。
十二月には「天下の草創」だと強調、院近臣の解官、議奏公卿による朝政の運営、九条兼実への内覧宣下といった三カ条の廟堂改革要求を突きつけたらしいが、要するに院や朝廷に、私がらみの人事がないようにするのが狙いなのだった。
議奏公卿は必ずしも、親鎌倉派という陣容ではないそうだし、院近臣も、後に法皇の宥免要請によって復権もあったため、すべてが兄上の意図通りというわけでもないようだが、内覧・九条兼実と頼朝兄上は、何かと深く結託しておったから、院の意向が兄上寄りになることは目に見えていた。
院宣もいろいろ出た。
義経・行家に従うな、に始まって、積極的に捕まえに行け、が出、それでも足りずに、文治二年(1186年)三月には、法皇お気にの摂政・近衛基通を辞任させ、代わってこれも九条兼実にさせたのである。
後白河も寵臣引き離されて愕然!だろうな。
ちょっとだけ酒がうまくなった。
だが後白河が、最後に私にくれた二つのもの。
どちらも嵐に吹き散らされてしまった。
一つは頼朝兄上を追討する宣旨であり、いま一つは…
しづやしづ
しづのをだまき
くり返し…
酒がまたちょっと不味くなった。
それでもここには郷と娘がおる。
再び膨らみつつある郷の腹には、なんとのう期待が持てるし、郎党も一人二人と集まり来ておる。
この義経、このままでは終わらぬぞってとこでっか?
京から着いたばかりの吉次が、人の顔見て茶化す。
来たな。
悪徳商人。
たれが悪徳や。
主様んため老骨に鞭打って、下ったり上ったり下ったり上ったりしとんのに、いけずな言い方せんどいてくださいなー。
これまた義経一生の不覚。
おどけて額をぺしとやる。
そして気づく。
こうした軽口叩いてくれるのも、今では吉次だけとなってしまった…
三郎はん…梟首ですってなあ…
伊勢で新しい守護を襲ってしくじったそうですね。
弁慶も私の傍らに寄り来た。
何で伊勢くんだりで。
一人で。
こっち来い何度も言うたんですよ。
鈴鹿山で自刃やて。
おもろいやつやったんに。
私は好きでした。
剛胆なとこも不作法なとこも。
吉内も寄り来てちょっとしんみりする。
静様を守りきったのに、何でこちらに合流せんかったんでしょう。
吉内にはわかるまい。
だが私と弁慶には、想定内のことなのだ。