うたかた

西軍が勝った。
たれよりも、許し難いは小早川秀秋。
きゃつの陣に一騎駈けで行った。
俺と気づいて逃げたものか詫びたものか一瞬逡巡し、ともあれこちらに歩み寄ってきたところを、馬上から一気に斬りおろした。
秀吉様の甥御。
一時は後継者でさえあったのだ。
よくも裏切れたものだ。

返す刀で脇坂安治を討つ。
賤ヶ岳七本槍が一槍だった者。
自ら秀吉様に売り込んでおきながら、西軍と名乗っておきながら、東軍に内応したのだ。
小川祐忠も。
赤座直保も。
朽木元綱も。
この者らが刑部の陣の出口を塞いだため、戦上手の刑部が、ほとんど戦えずに逝ったのだ。
平塚為広、戸田勝成らの忠臣も果てた。
戸田などは、東軍に友の多かったにもかかわらず、“友”どもは戸田の首を手柄として奪い合ったという。
加藤清正も福島正則も黒田長政も東軍。
豊臣恩顧という言葉は、いつの間に形骸化したのか。
毛利秀元殿が寄り来た。

勝ち戦。
天晴れ。

宰相殿におかれましては、兵のお食事がちと長すぎましたか。
秀元殿はうっと押し黙った。

言い訳になってしまうが、あれは広家が…

存じおる。
されどどちらが大将でござったか。
そも輝元殿はなぜこの地に居られぬ。
ご出馬されたくないのなら、総大将など引き受けられねばよろしいのだ。

言い切りの語調。
通常の治部殿に戻られた。
そうなのだ。
毛利を立ててくれていたのは、自分の人受けがよくないことを考えに入れていたからで、戦勝のいま、もはや毛利も何も立てる必然はなかろう。
治部殿の時代がくる。
何事も理詰めで叱責され、悪罵され、酌量など一切ない、数字の世界になる。
皆それが嫌で、治部殿を疎んでいた。
けれど勝った。
勝った以上、みな治部殿に従わねばならなくなる。
治部殿をなだめられるのは島左近と大谷刑部殿くらいであろうが、ともにこの戦で身罷られた。
たれもなだめたり、さとしたりできぬ武人が出来上がってしまったのだ。
秀頼殿は御年まだ七つほど。
淀殿の口も出るだろうし、何より治部は豊臣の治世のみを正しいと決めつけておる。
検地。
刀狩り。
外征。
利休すら切腹させた我が世の春治世。
あれがそのまま続くのだ。

家康には影武者が余りにも多くてね。
首実検も面倒になったから、みなひと小屋に押し込んで火をかけた。
秀頼様を盛り立てて、豊臣の世を続けていこうと思っているが、淀殿は何かと大野治長に仕切らせようとするのだよ。
やはり秀頼様は治長の胤(たね)なのだろうな。
だとしたら、秀頼様は秀吉様の世を継ぐお人ではない。
違う…


俺が最初に斬りおろした、あれが秀吉様の甥御だ。

俺が死をもたらした、羽柴秀次も秀吉様の甥御だった。

俺は我が手で豊臣を、

我が手で豊臣を滅ぼし去ったのか??



三成はその後佐和山の城に閉じこもって自死した。
あれだけたくさんの影武者の中に家康本人は居らず、戻りきて、何事もなかったかのように徳川幕府を開闢した。
すべて世はこともなく江戸時代に移行してゆき、我々は今に至る。
関ヶ原の勝敗など、所詮うたかたの夢にすぎぬのだ。



それでも地球は回っている