炎(ほむら)
お師匠は、己が琵琶奏でるお姿を、己で見ること叶わぬ。
全盲であられるゆえである。
私も己の奏する様子、お師匠の奏でられるお姿見れぬ。
私も全盲の故である。
ただし私と一族の者には、少しだけ見えるものがある。
それは炎(ほむら)。
人の体を覆うように見えるそれは、紅ければ紅いほど熱く、蒼ければ蒼いほど冷たい。
蒼については後ほど語るが、紅はたとえばお師匠そのものである。
通常でも人様よりも、お紅い炎もつお師匠、琵琶奏でらる折はもはや真紅。
真紅、あるいは深紅、果てしない紅(べに)竜の如くに舞い這わせ、果てに竜は昇天してゆく。
それで雨降ったり、長雨収まったり。
お師匠の琵琶は動かぬものもたやすく動かす。
鳴る神。
成る神。
かのかたの琵琶には神仏宿るのだ。
そのようなおかたに投宿していただける。
当刹これほど名誉なことはない。
恰幅よさげなご住職~体格は大概声音でわかる~が、般若湯あがりながら、機嫌のよい声で言う。
生臭坊主ごときがうちの師匠を評するな。
そう思う間に膝に置いたわが手が拳に変わりゆく、まさにその瞬時に、お師匠こほんと小さく咳払いした。
私の心を見抜いたかのようで、私はこらえ、己が拳をほどいたのだった。
おまえはいいものをもっているのに雑念がやまないねえ。
少し笑みを含んでいるであろう表情を、感じさせつつお師匠がおっしゃる。
まただ。
繰り返し言われきたけれど、どうしたら雑念が払えるやらわからぬ。
そんなことより旅続けたい。
お師匠と二人きりの修行旅。
おそば近く仕え続けられるなら、私は別段琵琶師でなくてもよいのだ。
付き人、付け人(にん)、道案内でも下働きでもよい。
なんなら按摩でも整体でも、検校の株買って、金貸ししながら生活をお支えするのでさえも構わぬ。
そんなにもお師匠に心酔しているのか?
ああ。
している。
ご本人にもその音色にも。
ただただその弾き語るを聞いていたい。
さほどにお師匠の音色は、神懸かっておられるのだ。
とある町屋で演奏した帰り、私は若い男の声に呼び止められた。
あのもし。
囁くような声音で、聞き分けれたのはまさに運の善し悪し程度だった気もする。
ぼそぼそとした小声は、よくよく聞くと、このように言うていた。
御師様はいま、いずこにおられまするやら?
先ほど寺に帰られた。
今頃は部屋でおくつろぎでしょう。
そう言って振り向くと、そこに人の気配はなかった。
その夜から、お師匠の姿は消えた。
寺の者は、戻りは確認したそうだが、再び出かけた気配はなかったという。
ならば刹内におられるはずではないか。
私は捜して捜して捜したが、手がかりは何もなかった。
寺は目の不自由な私のために、小坊主を一人付けくれたが、そのこどもが大したお手柄者だった。
墓地の先に、細い段々があります!
降りれば海岸に出られるという。
海岸。
ああここは!
この地は・・・
紅い炎が躍っている。
お師匠の琵琶の音だがなぜだろう、曲が進めば進むほど、紅(あか)の炎に蒼(あお)が混じる。
人様以上に紅い、お師匠の炎がどんどん蒼に近づいてゆく。
そして周囲を十重二十重、取り巻いている蒼の炎。
私は傍らの小坊主に問う。
何がおる。
お師匠取り巻いておる者らはたれだ。
おりません。
たれもおりません。
されど大小無数の鬼火が!!!
私は、私は、
うわあああっっっ!!
足音が逃げ去ってゆく。
履き物が脱げたまま、べたべたと足音のみ騒いで、小坊主はあの段々を駆け上がって行くのだろうが、物音に、蒼い炎どもは気づいたようで、妨ぐるものを許さずと、いくつかの小さな炎が小坊主の去ったほうへ向かう。
私も気づかれ、幾十の炎が私のほうへも集結してきている。
空気が一気に冷える。
そう、炎なのに、蒼の炎は冷たい。
あたりは今や凍えそうな寒さだ。
ああそうなのか。
あれは死者の魂。
すでにこの世にない、亡者たちの。
あああああっ!
ぐしゃっ。
小坊主が落ちたのだろう。
悲鳴後ややあっての鈍い音。
赤い小さな炎がいま、青に変わって上がってゆく。
死んだ、死んだとつぶやきながら。
幸い蒼には引きずられていない。
このまま天に上るのだろう。
では、私はどうなる。
周りをびっしり取り巻いている蒼い炎から逃れられるすべは・・・
どうやらなさそうだ。
ないなら。
私は背(せな)の、己の琵琶を手に取った。
肌身放さず背負ってきた、お師匠の相弾のための琵琶。
一人前でもないのに弾いて逝こうとは片腹痛いが、このような命の瀬戸際に、お師匠に合わせて逝けるなら本望。
師匠の奏でに音色合わせ、私の音を重ね合わせてゆく。
曲は佳境。
壇ノ浦。
波間に漂う舟たちが、白旗の舟らに追われて散ってゆく。
入水する公達、矢衾な漕ぎ手、いま安徳天皇が婆に抱かれたまま波間に・・・
師匠の主旋律。
私の合わせ。
うねるように曲が一つになる。
建礼門院が引き上げられる間にも、一人また一人と波間に沈んでゆく。
三種の神器も。
蒼の炎がぽつぽつと、一つ、また一つと消えてゆく。
残されたのは師匠と私。
思い切って駆け寄るが、すでに師匠は虫の息だった。
ついに出来たな。
お声と。
小さく笑んでくださったお口の形。
それが師匠のさいごのお姿だった。
この地が赤間が関であると、私は知らなかったし、あの蒼たちが赤旗の怨霊であるという証差もない。
けれど師匠はここで逝き、以後たれ一人異形のものに出会っていないとなれば、師匠の琵琶が平家鎮めたと思って何が悪い。
師匠と小坊主の弔いをお願いし、寺を後にする。
この先は、私と琵琶の二人連れ。
どこへ行こう。
たぶんそれは師匠が決めてくださろう。
師匠は今も我が傍ら、もとい、我が心奥に在られるのだから。
いいなと思ったら応援しよう!
