私本義経 奇策
激坂
この坂を。
一気に駆け下れば、福原の背後を突ける。
主の言葉を驚きつ聞く。
ものすごい急坂ではあるが、断崖絶壁というわけではない。
以前範頼殿に連れ行かれた木曽のあの坂に比ぶれば、絶対馬が降りられる。
別名逆さ落とし。
だが私は降りれると思う。
弁慶はどう思う。
木曽の坂よりなだらかかと。
吉内も頷いた。
他にも来る者はおらぬか?
兵たちは黙る。
黙るが、興をかきたてられているのが見て取れる。
主がさも、楽しそうに言うからだ。
遠き日、親に咎められても立木に登ってしまう幼子の冒険心は、どんな老骨の中にも埋み火のようにあるのだ。
主はそれに、いともたやすく火をつけてしまう。
しょうがありませぬなあ。
一人笑えば、
このくらいの坂、伊豆にも鎌倉にもござる。
我も我もと声が挙がって、約百騎、ほとんどが拳を突き上げていた!
さすがはわが軍。
なればこの義経、我が身を持って手本とせん!
言うやいなや、
太夫黒!!
叫んで、下れと胴を軽く蹴る。
見事に下ってゆく背(せな)を、
お先御免!
私が追う。
私の矢筒も鎌倉殿に召されてしまったが、平泉から乗ってきた、この春風(しゅんぷう)もかなりな猛者である。
わずかな足場を見出して、見事に主のあとを追っている。
我も。
御免!
佐藤兄弟が降りてくる。
無言の蹄は吉内。
数瞬間があいて、ああ、続く、次々と、蹄の音!
遅れをとるな!!
恐れるな!!
我は三浦の者なり!!
我は伊豆の!!
次々名乗りを上げながら、次々次々降りてくる。
馬を守って引いてくる者もいる。
抱え上げておる剛の者も。
それでよい。
義経軍は自由なのだ。
それでよい!
うおおおおおおっ!!
たった七十騎とは思えない怒涛のおめきが山間を満たす。
色めき立ったのは福原の平氏たちである。
清盛の法要終えたばかりのしんみりした空気がつん裂かれ、
何事!?
狼藉か!?
敵襲であるか!?
ざわめきめがけて私が法螺貝を吹き、主が大音声で名乗りを上げた。
吾こそは、源義朝が忘れ形見、九男義経。
今こそ傲岸不遜極めた平氏一門誅する時なり!
いざ参らん!
いざいざいざいざ!
いざ!!
叫びは平氏だけでなく、生田口の範頼殿にも一ノ谷の安田殿、退き兵を追っていった土肥殿にも届いたという。
義経じゃ!
遅れをとるまいぞ!
行けい行けい!!
弓手(ゆんで)、馬手(めて)、背後。
それも真後ろ。
これで動じない平氏なら、京を逃げ出しもしなかったろう。
周章狼狽、逃げ散るかと思えば、腰の抜けて放尿脱糞の公達(きんだち)もあり、浅ましいことこの上なかった。
斬られ、突かれ、まろび逃れて我がちに浜へ出る。
水上の魔神の復活か?
いや、慌てふためいておるあまり、船を争う同士討ちだ。
乗った者を引き下ろし、後から来る者蹴落としして、かろうじて数十が沖へ逃れた。
えいえいおー!
えいえいおー!
怒涛の叫びが天を衝く。
主こそ源氏の雄。
たとえ大将ならずとも、主はまさしく戦の天才なのである。
それでも地球は回っている