私本義経 狸
平氏の底力
後白河の狸が、平氏の滅亡を望むので、兼光を洛中警護に残し、巴、兼平ら引き連れて、逃げる平氏を追って追って追って。
けどあれだ。
平氏は宋と貿易で儲けたほどの海運上手。
海を知らねえ俺らと違って、九州も、瀬戸海も、自在に移動して回る。
その最たるもんが水島の戦いだった。
寿永二年閏十月一日(ユリウス暦1183年11月17日〈グレゴリオ暦1183年11月24日〉)、備中水島(現・倉敷市玉島)でまみえた敵は、とんでもねえ水上の悪魔だったんだ。
信じられるかい?
やつら水の上に陣張りやがるんだ。
幾艘も船繋いで陸みたいして陣張ってた。
それも一艘二艘じゃねえ。
なんと一千艘だぜ。
こちとら人員は七千いたが、船は五百であいつらみてえに繋いでもねえ。
仮に繋いだとしてもだ、波の一つにも互いにぶつかり合って、おたつくのが関の山だ。
平家ほんとに操船すげえ。
こっちの船とあっちの船がもう舳先ぶつかりそうってとこまで寄っても隣とぶつからねえんだ。
こっから白兵戦だな、って覚悟したまさにそのときだ。
放てっ!!
の声が一閃したかと思うと、雨霰と矢が降って来やがった!
うわあっ!
ぐわあっ!
白兵戦って思うから、前へ前へと乗り出してた兵たちが軒並みやられた。
今ぞ!
次に向こうが繰り出してきたのが騎馬隊だ。
船の上に馬だと!?ってなるだろ??
平家の馬は海も波も平気でさ、ざんぶざんぶと浅瀬に飛び込んで来やがる!
浅瀬から上がってくる騎馬隊に、まだ降り止まない矢、矢、矢。
うちの兵たちは総崩れになっちまって我がちに陸に戻ってきちまった。
逃げ散る兵が一人また一人と斬り払われ矢に貫かれ、
逃げるなー!!
叫んでる俺を、
義仲!
庇って退かせたのは巴だった。
力自慢の巴は、そのまま俺をかなりなとこまで引きずっていき、
引けえ!引けえええ!!
と、声の限りに叫んだね。
巴と巴の兄弟と、俺の指示は絶対優先だったから、 俺の兵らは我がちに、陸に上がって逃げ散った。
この戦の責任者と任じてた、足利義清、海野幸広の両大将は、針鼠みたくなって死んでた。
ほかにも足利義清の弟の義長、高梨高信、仁科盛家等々、うちの主だった武将がこの戦いで消えた。
態勢を立て直すにせよ、一呼吸置きたかった。
俺らは京に戻ろうとしたが、勢いに乗った平家が追ってくる。
福原まで押し戻したらしく、
平氏を殲滅するまで京に戻んな
って言われてる俺らには、居場所が全くどこにもねえ。
途方にくれてる俺たちに、声かけてきたのは名も知らん商人だった。
援助
聞けばそいつは北陸路を行き来して、金を商ってる商人なんだと。
俺らが北陸方向からきたから、親近感があるんだと。
倶利伽羅峠の見事な勝ちっぷり見してもろて、義仲はんにすっかり男惚れしましたんや。
うちが懇意にしてました古いお寺さんに話通しときますさかい、そこで骨休めしてくださいましな。
平氏の殲滅はまだだし、何より兵たち自体が、京に戻るのを嫌がってる。
京にはまともな食い物がないからだ。
俺らは申し出を受けることにした。
かなりな荒れ寺だったが、雨露はしのげる。
京を出て以来、久しぶりの休息。
商人の厚意で飯も飼い葉もある。
洛中ではこんな扱いをされたことはなかったので、倍増して身にしみた。
だが戦況報告には行かねばならん。
たれが行く?
俺が。
兼平が即答してくれて、早速出立したが、摂津に入るか入らんかのうちに、兼光家人とともに戻り来た。
京に頼朝の弟(おとと)がおります。
頼朝も近々来るそうです。
何だと!?
思わず目を見張った。
俺らに平家を追わせといて、そりゃないわ古狸!
自分の目が爛々と光ってるのを感じた。
このままでおくものか!
ほくそ笑む
頼朝も、義仲も、吾の手のひらの上で踊る駒よ。
既に平氏は追放済み。
源氏どもはくるくる回りつぶつかり合って、すべて木っ端微塵となる。
既に次代は尊成親王と決めておる。
以仁王の子だと?
どの口が言う。
田舎侍はこれだから…
と酒(ささ)呷りながらほろ酔い加減。
ところがづかづかと、田舎侍どもが土足で上がり込んできたのだ。
義仲と、腹心ども。
一人は女人というから驚きだ。
端正な顔をしておるのに、今吾の喉笛に、蛮刀を突きつけておる。
義仲が、野盗のごとき物言いで迫りおる。
俺らおん出しといて、頼朝呼ぶんか。
あ?
本当に下賤な物言いだ。
しかも吾を小突きまわし、あろうことか、頼朝を討つ宣旨を書けという!
怒りは湧いたが、いいだろう、書いてやろうぞ。
この書状持つ者
吾が命にて源の将討つ役割なり
木曽の山猿は、意気揚々と引き上げたが、朗党を見張りに置いていった。
無礼すぎる。
仮にもここは吾が内裏として、長年使用してきた方住寺ぞ。
だから吾の宣旨には二つの意味を込めた。
山猿には決してわかるまい。
わかるものか!
それでも地球は回っている