私本義経 吉野
嵐に揉まれた船は、思い切り錐揉みして、一度ならず宙にも舞った。
僚船はどこだ。
舳先はどちらを向いている!
かすかに見ゆる岸へ、船は着けられたが、その岸はなんと摂津側だった。
ごめんです!
すまんです!
舵取りたちが逃げてゆく。
遠く揺れる松明。
幾つも幾つも。
照らされる顔は、多田の郎党だけではない。
藤原範資の、郎党の顔もあった。
範頼兄上の養父の息子殿であり、範頼兄上とはごくごく親しい…
心うちが、一気に冷えた。
立ち上がり、名乗りを上げたくなった。
義経はここにおる!
かかってくるがよいわ!!
叫ぶ寸前で、弁慶が私の口を押さえた。
振り向くと、忠信、三郎、静らもいて、少なくともわが船の者らは無事であることが見て取れた。
弁…慶…
お気持ちはわかります!
わかっておりますが!!
今ではありませぬ!
今ではありませぬ!!!!
声にしたら間違いなく大音声になる無音で、弁慶は私を諭していた。
白銀
海浜の嵐は、吉野においては雪となり、春に霞のように桃色になる山は今、純白の装いとなっていた。
さく、ぽくと、雪踏みしめながら、山内を散策しておると、静がそっとついてきた。
静かですね。
ほんにな。
静寂の中の静。
一入の優美。
されど郷は別船であったため、ここへは落ちてこれなんだ。
法印(法印大和尚(ほういんだいかしょう)の略。最高の僧位)のご好意で、金峯山寺の僧坊・吉水院(きっすいいん)に宿らせてもらったものの、兄たちからの圧迫はものすごく、十一月七日には、私の位階が全部奪われた。
検非違使伊予守従五位下兼行左衛門少尉すべてである。
すでに領地は召し上げられてあり、六条堀川の邸宅ももうない。
実は郷の父上・河越重房殿は、昨月二十三日の、鎌倉での、勝長寿院落慶供養に参列拒まれている。
もちろん私の縁戚ゆえである。
それだけでは済まず、この頃には、私と同じく、あっけないほど簡単に、全領地没収となってしまった。
縁付かせたのは兄上ではないか。
何でそうも簡単に、人を切れるのだ?
そうそう。
兄自身は八日の黄瀬川の段階で、戦装束を解いている。
武士たちを動き出させた、それだけで仕事は済んでいるのだ。
転がりだした雪玉は、どんどん大きくなってゆく。
私たちと入れ替わるように上洛した東国武士たちの態度は頗る強硬で、院分国の播磨などでは法皇の代官を追い出し、倉庫群を封印したりなどしたようだ。
頼朝の怒りに狼狽した朝廷は、十一日、義経・行家追捕の院宣を諸国に下したという。
私と行家に兄追討の院宣出したが十月十八日。
まだ丸ひと月も経っておらぬ。
後白河ーーーーーーッ!
義経様!
弁慶と忠信、三郎が、雪に転(まろ)ぶように駆けてきた。
金峯山寺に比叡の僧が来ておって、顔見知りでござった!
僧兵どもが参ります。
お逃げください!
私は少し躊躇する。
法印に、ご迷惑がかかってしまうのではないか。
勝手に潜んだとすればよいでしょうに。
悪たれ慣れしてねえなあ殿は!
もと山賊はいちいち口が悪い。
口が悪いついでに思わぬ情報をくれた。
静様。
あんたここから先は行けねえ。
吉野の奥は女人禁制なんだ。
下り道探すから、一緒に来てくんねえ。
ああ…忘れていた…
私は静を省みたが、静は静かに笑っていた。
お別れでございます義経様。
ご無事なれば、再会もありましょうから。
静。
すまぬ静。
泣き詫びる私に強い視線が当たる。
かの女性(にょしょう)は一瞬だけ、たずさに変わった。
人はつけずともよい。
行け。
そして弁慶にも言いおいた。
必ず守れ。
にやりと。
静には似合わぬほどはっきり強く笑んで、静ははあっと跳躍し、雪の木立の間に間に消えた。
幻のように。
それでも地球は回っている