関係者から聞いたどうでもいい話64〔有料&購入者様も他言無用で願います〕


信頼できる人から聞いてますが、証拠・証明はできませんし、ほんとだろうが嘘だろうが、たぶん誰も傷つかないだろう内容です。


これでコロナが終わるなら、殉死のようだと知人が言った。

コロナの初めに志村が逝って、終焉に上島なら・・・

笑いの道の怖さ険しさを、久々にみた気がした。

芸人の孤独も・・・


私にとってダチョウ倶楽部は4人


ダチョウ倶楽部というと、いまの人には3人なのだろう。
でも私にとっては4人だ。
肥後、寺門、故・上島。
そして初代リーダー・南部寅太(現・虎弾)。
そう、いまは電撃ネットワークのあの人。
南部さんは年かさ(上島竜兵の5才上※)で、苦労もいろいろされている。
一番に亡くなるかと(失礼)、勝手に思っていたのに・・・
今日の今日で、ショックは拭えない。
とりあえず、私とダチョウの関わりを語ることで、竜さんへの慰霊としたい。



ダチョウ倶楽部と最初に出会ったのは、渋谷は円山町にあった見番。
見番というのは、

芸妓さんが客待ちをしたり、歌舞音曲の練習をしたり

するところ。
30年前で既にもう、円山芸妓さんはほぼ全滅だったので、見番はほとんどいつもお茶をひいていた。
そんな場所を、お笑いスター誕生(日テレ)組や、ザ・テレビ演芸(テレ朝)組の若手が、ネタかけ場として使わせてもらっていたのだ。
そういう場所、当時の渋谷にはけっこうあった。
ラ・ママというライブハウスも、渋谷区の盆踊り会場も、そういう場所になっていた。
ホンバカデンジャと私が呼んでいた三組のお笑いさん。
(ホンジャマカ、バカルディ、デンジャラスだ。)
ちょうど売り出しのウッチャンナンチャン。
前座的な意味で笑組(えぐみ)。
売れ損なった『いそのとなかじま』。
そんな彼らに混じって、キャラバン(もとはキモサベ社中。後に劇団ニュースペーパー)や、ダチョウ倶楽部がいたのだ。
当時のダチョウは4人で、当時のリーダー・南部さんは、それはそれは奇妙味のあるお笑いさんだった。
この時代のダチョウのネタで、私は忘れられない一本がある。
青梅マラソンをもじった、

オーメンマラソン

というネタだ。
オーメンだけあって、走る距離は66.6km。
走り出しは真夜中で、優勝者に授けられるのは月桂冠ではなく、でこに『呪』のー文字の焼き印なのだ・・・


そういうシュールなネタができるのは、南部さんという独特なキャラクターあってのことだったのだが。。。


ある時期から南部さんは、ダチョウ倶楽部から消し去られ、ダチョウは肥後、寺門、上島になった。
南部さんの“白塗りコックリさん”がいないと、オーメンマラソンネタは成立しない。
実際三人では、ネタはほとんどやらなくなり、リアクション芸ばかりになっていった。


なぜ南部さんだけが消えたのか


ダチョウ倶楽部のウィキでも、南部さんのウィキでも、このことについては定かには記されていない。
私が南部さんから直に聞いた話はこうだ。

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それでも地球は回っている