『倉 後段』②〔R18有料作〕


「人を呼ぶよ」
 麟は冷静に言い、後は沈黙を守った。
「呼んだら恥ずかしいのはこのお兄ちゃんだよ」
 自分だけ着衣を繕いながら、松東は麟に諭すような口調を使ったが、麟はかけらも欺かれなかった。
「違うよ。僕が話すもの。松東のおじちゃんが、天野のお兄ちゃんにヤなことしようとしたって」
「…」
「僕にも同じことしようとしたよね。それも言うよ」
「!」
「本家次代降りたいの?月津の良正さんがあとをやりたいみたいだし、いい潮時かもしれないよね」
「ぐううっ」
 ジジイは声にならない声を洩らし、やっと俺の躰から離れた。
「クソガキが!覚えてろ!」
 捨て台詞を吐いて松東が去ると、麟は初めて無表情を崩し、ちょっとだけ笑った。
 俺の気持ちは複雑だった。
 かろうじて助かったという気持ちと、もう汚れてしまった的な気持ちと、親父を恨む気持ちと、会社はどうなるんだ的な不安。
 さらにはこんな醜態を、八才のこどもに見られたというのに裸の躰を庇うこともできないこの脱力はいったい…
「『之那(ゆきな)』っていうんだ。南方の島で、拡爺様が見つけてきたらしい」
 何でおまえは動けるんだ。
「僕とか松東とか、体質的に効かない人もいるんだって」
 言いながら麟は、奥の間の押し入れから、タオルケットを出して、俺の躰にふわりとかけた。
「もうちょっとしたら動けるからね。それまで我慢して」
 しゃがみ込んで俺を見る、麟の表情は無垢であどけなく、俺は明日安心して、そのまま深い眠りに落ちた。

 朝目覚めると同じタオルケットの中に、深く眠った麟がいた。
 半裸の自分にどぎまぎし、まさか俺が何かしたかと慌てたが、麟、ちゃんと服着てるし、何よりも、眠っているその表情が、とても自然で穏やかで、あやしげなコトの後とは全く思えない。
 自分の良識を信じることにし、俺はそっとタオルケットから抜け出し、着衣を直し始めたのだけど…
 ボタンを一つ留めるたびに、前夜のことがフラッシュし、嫌な感じは吐き気となって、俺の心を襲う。
 本家次代。
 総代の補佐役を務め、一族の大事を取り仕切る、そんな男が自分の欲望のままに振る舞う…
 最低じゃないか。
 そして麟。
 この子はそんな大人たちの中で、八年も育ってきたのだ。
 法要の席で見せていた、落ち着き払った表情は多分、自分を守るための仮面。
 クソガキなんかじゃない。
 こいつは…こいつは…
 麟が目覚めた。
 俺を見て、一瞬身を固くする。
 だがすぐに息を吐き、半身起こして伸びをした。
「守っててやったんだぜ。寝ちゃったけど」
「わかってる。ありがとな」
 八才のガキに感謝するのはちょっと悔しかったけど、本当のことなのだから仕方がない。
「おまえ…」
 聞きかけるが続けられない。
 麟だって答えたくないに決まってる。
 だが麟は、質問の意図を理解して、問わず語りに話し始めた。
「されてない。狙われてるのは感じてるけど、まだ、からだが小さいし、むりやりしたら大怪我になっちゃうだろ?」
 大怪我…
「だからあと二、三年は待つ気なんじゃない?我慢しきれずに、あんたで間に合わせようとした。災難だったね」
 あまりにもの内容を、あまりにもあどけなく言うので、俺はなんだか腹が立った。
「このっ」
 タオルケットの中に押し戻すと、麟はきゃっきゃ笑いながら身をかわし、俺はさらに捉まえにかかる。
 ふざけあいながら胸は痛む。
 こいつはこうした触れ合いではない、違う意味の接触ばかりを要求されてきたのではないか。
 誰も本当の意味で愛してやっていないのではないか。
 悲しくなった。
 幸せにしてやりたくなった。
 そのために、俺ごときが出来ることは…
「天野のうちへ来いよ。弟にしてやる」
「?」
「その代わり、兄ちゃんには絶対服従だぞ」
「!」
 俺は一生忘れない。
 見開いた目を宝石のように輝かせ、次の瞬間両の目から、滂沱の涙を流した麟を。
 俺の腕に飛び込んできて、号泣なのに声は立てない。
 声を殺して泣くのが日常だった…?
 そんな姿があまりにも痛ましく、俺は麟を抱いたまま、しばらくそこを動けなかった。

             3へ続く

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