私本義経 激変

急報


吉内が急ぎ戻った。
木曽が動いたのだ。
範頼兄上が案じた通り、北陸宮を担ぎ、破竹の勢いで京へ向かっている。
何でも倶利伽羅峠というところで、自軍に十倍する平家軍を、知略と機動力で押し返し、無残な敗北に追い落としたのだという。
聞けば敗軍の将は平維盛。
富士川の二の舞のような惨憺たる敗北。
もしかしたら維盛は、敗北の天才なのかもしれない。

…などとわらっている場合ではない。
義仲殿に単独で、京に先入りされた日には、鎌倉の立場は壊滅してしまう。
何よりあの行家に大きな顔をされるのだけは我慢がならぬのだ、頼朝兄上は。
ここは一番私がと、範頼兄上が申し出ると、頼朝兄上は喜色満面となったが、私を連れて行きたいと言ったがために、嫡男兄上はたちまち渋面となったに、

知恵回るゆえ是非連れて行きたいのだ

などと、いらぬ持ち上げおっしゃってくださったがために、義経物忌みであるなど言われ、ますます埒があかぬ。
押し問答であれやこれやで結局範頼兄上は、縁(えにし)ある遠江に文送り、安田義定殿の軍かろうじて、義仲殿の入京に追いつくという、頭数合わせの仕儀となった。
それでも顔は立ったようで、功労ねぎらいは何ということ、一に頼朝、二に義仲、三に行家と相成ったというのである。
義仲殿はいかばかり不満であっただろうか。
八十数里を戦いながら来たというに代理しか出していない、来ていない鎌倉勢が一の功労者である。
実際行家叔父はぶうぶう文句を言ったといい、言い得的に褒賞を上げてもらったらしい。
それでも義仲殿は文句一つ言わなかったのだ。
ただ一つのことを除いて。
その一つのこととは、

北陸宮を新天皇とすること

なのだった。


逆賊


これはならぬ。
木曽義仲の進撃で、平氏と名のつく者はすべて、慌てふためいて都を出た。
もののふも女御も、家人も走り使いも。
平氏の女たちは帝に嫁いでいる者も多く、その者たちもついて出た。
今上は母を平氏に持つ上、幼子である。
がゆえに母らに連れ出されたのである。
よくよく考えればお腹様にすぎぬ平徳子、外戚に過ぎぬ平氏一門に、それをしていい理由はない。
なのに平氏は連れ出した。
皇太子に擬されていた守貞親王までも連れ出した上、実は後白河法皇までも連れて行こうと決めていたのだ。
法王はいち早く察し、比叡山に登って身を隠し、事なきを得られたという、まさに紙一重。
こうまで平氏は驕っていたのである。

まあ確かに、義仲殿は、北陸宮を奉じて挙兵している。
ゆえに義仲殿らが入れば、幼き帝は危ういかもしれなんだが、そのことも織り込み済みで母らは帝にしたのだ。
連れて出るなど畏れ多いではないか。
つまり…
帝不在そのものが、次帝選定の事態を生んだのである。

とはいえ天皇家の倣いによれば、次帝は天皇家から出るべきである。
以仁王は令旨とともに挙兵したことで皇族の資格を喪失している。
臣下降下、後白河源氏となったのだ。
その名も源以光。
まして北陸宮様はそのお子。
新参源氏の二代目にすぎぬ…

義仲殿は令旨を奉った当然の帰結として、宮様を推したにすぎなかったのだが、朝廷はそうはとらなかった。
帝選定にまで口を挟む不心得者。
鄙育ちの不作法者。
ささやくように噂が広がり、義仲殿も、義仲殿配下もどんどん評判が落ちてゆく。
そこへ持ってきて飢餓である。
飢餓の京が抱えた新しい、兵という人口が、もともとの住人の飢えを倍加した。
そればかりか、兵らの馬は、田畑の苗やら雑草やらまで食らいつくす。
あまりのことに抗議しようものなら、

兵に馬はつきものじゃ!

と開き直る。
いろんな源氏が洛内に居るので、あちこちで小競り合いが絶えぬし、京の暮らしもならいも知らぬので、牛車に前から乗って失笑を買ったりもある。

無頼の田舎者

ささやき交わされるほどに、もともと京にいて、宮中のしきたりにも詳しい行家叔父上の株ばかり上がってゆくが、その行家叔父上の兵が特段お行儀よいわけでもなく、京の民は泣きっぱなしである…

それでも地球は回っている