藤崎キヨリは多田純名が好きだ。
好きだっつっても遠くからぼーっと見てるにすぎない。
夜、20時30分。
会社帰りを見守ってる。
出窓からほのみえる歩き姿が後ろ姿にかわってくまで、キヨリはずっと見送ってる。
でも、見送ってるだけだ。
言葉を交わすわけでもなく、ただ20時30分に窓辺に立つだけ。
キヨリは臆病で。
でも小さかった俺がいじめられてたとき、キヨリは俺を抱えて走ってくれた。
お母さんこの子飼って!
無口なキヨリの初めての三語に、お母さんは驚いて、その要求は即決で認可された。
そんで俺はキヨリのものとなったのだ。
物静かなキヨリとの穏やかな日々。
本を読んでくれたこともある。
キヨリが会社員になった今、俺は家で待つだけだが、人間の六千倍の嗅覚は、キヨリの一日を正確に、俺の鼻に運んでくれるのだった。
お年寄りに席を譲ったんだな。
女子高生の髪留めに、あんたの髪が引っかかったって?
いろんなことがあるんだなあ。
でもその日、キヨリは帰宅したとたん、シャワールームに飛び込んで、すり切れるほど自分を洗っていた。
痴漢だ。
どこさわられた!
そいつ殺してやる!!
きれいになったけど悲しそうなキヨリだ。
それでもね、助けてくれた人いたの。
そいつの手つかんで、
「なにしてんだ!」
って。
駅員に、引き渡してくれた…
でも怖かった…
膝を抱えて泣くキヨリから、そいつの匂い、感じた。
それが多田純名だった。
二人は車内で何度か再会し、ちっとは言葉も交わすようになった。
暑いですね。
寒いですね。
その後どうですか。
大丈夫ですか?
多田は言った。
男として、実は犯人の気持ちもわからんでもないんです。
あなた清楚だし、きれいだし…
そんな多田が、キヨリは好きになってきてる。
でも言えない。
言わない。
ただただ多田が、駅と家を往復する様を見てるだけだ。
人間の六千倍の嗅覚は、出来事を全部伝えてくる。
もうすでに、キヨリの匂いは恋する女のものになっている。
まて。
匂いが近づいてくる。
多田だ。
うちにきた!
マジか!?
おとーさんとおかーさんの前で、多田ははっきり言った。
お嬢さんとお付き合いしたいです。
俺は唸ろうとしたが、キヨリが留めた。
キヨリの手から、匂いから、今日の出来事が伝わってきた。
いつもの電車。
女子高生の声。
「この人痴漢でーす!」
多田の手が引っ張り上げられた。
周りの好奇と嫌悪の目。
「違う! 僕は!」
「違います!!」
キヨリは多田以上の声で叫んだのだ。
「その人誰もさわってません!」
女子高生たちは濡れ衣常習犯だったらしい。
金とかでなく、人の人生がめちゃめちゃになるのが面白かったのだ。
キヨリはずっと多田をみてた。
だから濡れ衣がわかったのだ。
二人の匂いはシンクロし、恋しあう二人になっている。
ずるいなあ多田。
俺はおまえがキヨリと出会うずっと前からキヨリを守ってきたんだぜ。
俺もキヨリに守られた。
フィフティフィフティじゃないか。
なのにおまえは人間で、ずっとキヨリと生きていける。
俺はもう…寿命だ…
おとーさんとおかーさんが、多田によろしくとか言ってるうちに、俺の意識は薄れていく。
キヨリが俺に気づく。
口が『ゴン!』って動き、こっちにとんでくる。
ああ、気づいてくれた。
十分だ。
キヨリ。
大好…