3月25日 教皇三人

悪魔の子


チェザーレ・ボルジア。
枢機卿の息子。
神に仕える枢機卿が妻帯しているのも変な話で、その子であるチェザーレ、ホアン、ルクレツィア、ホフレらは、存在そのものが不条理。
まして父君ロドリーゴ・ボルジアがコンクラーヴェ(教皇選挙)に勝って、教皇アレクサンデル6世様になってしまったからますます形見が狭い!
そんな立場の中でチェザーレは、徹底した現実主義者になっていったんだと思います。
ヴァレンティーノ公チェザーレ・ボルジア。
私の友が大好きな、歴史上の人物です。



3月25日 教皇三人


1409年。
教皇が二人分立するという、教会大分裂(“シスマ”というらしい)の事態収拾のため、ピサ教会会議~別名ピサ公会議~が開会。
新たな教皇を選立したけど、二人の教皇がそれを認めなくて、教皇が三人になったとな!

この収拾がすごかったね。

コンスタンツ公会議ってのが1414年~1418年にかけて、ドイツのコンスタンツで開催されたのね。
三人の対立教皇~グレゴリウス12世、ベネディクトゥス13世は最初にモメてた二人。アレクサンデル5世が新しく選ばれた一人。ちなみにこのアレクサンデルが翌年急死して、ヨハネス23世っつーのが跡を継いだからますますややこしい。四人やんな?~を廃して、一人の正統なローマ教皇を立てることで、シスマをみごと終結させたのです。
そして新たなる教皇に選ばれたのが枢機卿オド・コロンナ。
1417年11月11日に選ばれたので、その日の聖人マルティンにちなみ、マルティヌス5世と名乗ることとなった…
ヨハネスは逃げ、グレゴリウスは諦め、ベネディクトゥスは二年粘ったけどやっぱり廃位。
世はマルティヌスのものになりました。

正義?を執行しえたコンスタンツ公会議だけど、
『教皇さえも公会議の指導に従うべきである』
とした考えが後に異端とされ、後にも先にも公会議は、このコンスタンツのみが認められているだけだそうです。
シスマに終止符を打つべく行われたピサ公会議の恥ずかしい首尾とは打って変わって、コンスタンツ公会議は毅然と行われたのにね…
やっぱり神の代理人より偉い公会議があってはまずいのでしょうね。


それでも地球は回っている