私本義経 頼朝②

かりそめの勝利、かりそめの敗北


最初の標的は伊豆国目代・山木兼隆とした。
今でこそ目代だが、山木はもともと吾と同じく流人である。
治承三年(1179年)一月に、右衛門尉を解任され、伊豆国山木郷に流されてきたのだ。
同年の政変の後、懇意のあった伊豆知行国主・平時忠~「平家にあらずんば人にあらず」を発したといわれる御仁。清盛の言葉とされがちだが、実はそうではないのだ~により、伊豆目代に任ぜられた。
ために兼隆はこの伊豆で、勢力を持つようになったのだ。
この二十年の間に平氏の台頭は、平氏の横暴と言い換えられるようになっており、この新しい伊豆目代もまた、土地のもともとの豪族たちを、貶め、あざ笑っていた。
治承四年(1180年)八月十七日。
吾の号令で北条時政~妻・政子の父である。つまり吾には岳父である~等が、韮山にある兼隆の目代屋敷を襲撃した。
山木館は通常ならば、かっちり警護が行き届いているはずだったが、三島大社の祭礼のために、その日は屋敷の者の多くが留守していたため、兼隆は満足に戦うこともできず、加藤景廉によって討ち取られたのだった。
この勢いで相模に入り、亡き父、亡き兄と結んでいた、三浦一族と合流する予定であったが、折からの豪雨で増水した酒匂川にて三浦勢が足止めを食ったため合流できず、同月二十三日、真鶴付近で、吾らは単独で平氏との合戦に突入することとなってしまった。


石橋山の戦い


自軍三百騎。
平家方の大庭景親、伊東祐親らは三千余騎。
奮戦したが多勢に無勢、手ひどい敗北となり、土肥実平ら僅かな従者とともに山中へ逃れる羽目となった。
山中をさまよいさまよいして、やっと真鶴岬(現在の岩海水浴場)に出た。
時に八月二十八日。
船で安房国へ、命からがらという情けなさ。
それでも生きている。
今はそれで充分…

治承四年(1180年)八月二十九日。
吾らは無事、安房国平北郡猟島へ上陸できた。
早々に上総広常、千葉常胤等と会う。
房総に勢力を持つ実力者たちだ。
ここでも父の名が効いた。
上総御曹司。
そして兄、悪源太。
一廉の人物像と、以仁王の令旨。
たれもが吾に希望をみる。
吾はそれらを受け止めるだけで良いのだ。
願った加勢は悉く叶えられる。
父と兄が培った信用。
今はそれに頼るしかない。

九月十三日。
安房を出立。
下総国府で千葉一族と合流。
広常も大軍を率いて参上してくれた。
上総、千葉両氏を勢力に加えた吾らは、十月二日、太井・隅田の両河川を渡り、武蔵に入った。
この地で足立遠元、葛西清重の勢が加わった。
さらに葛西清重は畠山重忠、河越重頼、江戸重長ら、同じ秩父氏の一族を説得してくれ、彼らも吾の軍勢に加わってくれたのだった。
同月六日。
かつて父と兄の住んだ郷、鎌倉の地に辿り着いた。
吾の知らぬ、吾の本拠。
これから吾が、吾の一党が、在とする本陣。
南は海。
北東西は山。
険しい岩の道が、他郷と鎌倉を上手に切り分けてくれ、なにより敵の侵入を防ぎやすい地形であるところが一番良い。
ここが吾らの再出発の地となるのだ。
のう、弟よ。
と振り向くと、そこにはごつい顔立ちの、吾よりいささか若い僧形の男が控えていた。
阿野全成。
常盤の生んだ三人のおのこの、最初の者である。


対面


腹違いの兄弟がきておる。

そう言われても、得心はいかなかった。
今若、乙若、牛若。
吾とは何の縁(ゆかり)もない者たち。
その一番、年かさの者。
吾とは六才違い…

だが、対面したとたん、涙がしとどに頬を濡らした。
弟。
わざわざ戦さ場を尋ね当て、吾の力になりたい一心で、単身来てくれた者。
片親だけのつながりだというに!
上総も千葉も、足立、葛西も、吾が父、吾が兄の名と、来たるべき恩賞に従っているにすぎないのに、この男は一心に、吾のために来てくれたのだ。

それが今、この背(せな)に在(お)る。
直下の実弟・義門は平治の乱のどさくさで逝ってしまったが。
その下の実弟の希義は、遠い流刑地・四国の土佐で、決起の声挙げたか挙げぬかのうちに謀殺されてしまったが。
なのに今、ここに吾の異母弟・全成が在る。
吾はけして、一人ではないのだ。


…てなわけで、頼朝様は今若様を弟として歓待し、奥方の妹御と娶(めあわ)せたそうだ。

義経様にも優しくしてくれるかな。

してくれるさ。
異母弟にもお優しいとわかったし。

期待もてるなー。

一行に軽口が出る。
合流に希望を持っている。
私にはそうは思えないし、主も私と同じく思っている様子だ。
横顔が厳しい。


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NN/4月4日5日、第2回町屋イベ参加予定です!
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