私本義経 前史 長兄の日々1
俺は源義平。
父・義朝の初子である。
長子であるとか嫡男であるとか言えぬのは、弟らが、俺より出自がよいからだ。
俺自身はそんなに気にしてはいなかったが、家中の者が悔しがった。
いっとう最初にお生まれなのだから、嫡子でようござらぬか!
そうもいかぬのが武家の世なのよ。
父は俺のいる南関東の大半を平らげ、それを実績として京に戻った。
後は任せた
との一言で。
時の皇(すめらぎ)から、父の父、為義爺(じじ)の官職、検非違使を超える、
下野守
に任じられた父はいま、京に在(あ)る。
後は任せた
と言われたゆえ、俺は本拠である鎌倉より北上を決めた。
既に下野守と任官された父の長子である事が、北上を助けてくれている。
松田の波多野氏のお子である弟、朝長はいまだ十三。
さすがに俺より先んじようとはしない。
なので自然と俺が前に出る。
前に、前に、前に。
新田、藤姓足利、畠山らも俺の勢いに乗ってくる。
この勢いで蝦夷まで行くか!
おー!!と皆の拳が上がりかけたとき。
俺たちの行く手を遮りやがったのは、利根川と、その向こうの上野(かみつけ)の勢だった。
叔父ども
わが祖父にあたる為義に、嫡男の座から蹴り落とされた、父の弟・義賢(二男)、義憲(三男)が、対岸に陣取ったのだ。
まあ陣取っただけなら可愛げもあろうものを、義賢叔父は武蔵国最大の武士団であり、留守所総検校職である、
秩父重隆
の娘を娶り、“養君”として武蔵国比企郡大蔵(現・埼玉県比企郡嵐山町)に館を構えたのだ。
これは明らかに、父と俺の領地、相模を狙わんとする行為である。
だが俺にとっては、いま秩父重隆と事を構えるのは、かえって好都合だった。
重隆は、甥・畠山重能とその父・重綱の後妻を相手に家督争いの真っ只中という立場だったのだ。
しかもその後妻なる女性(にょしょう)とは、長らく俺の乳母だった女なのだった。
この際重隆を叩いてしまえ。
畠山家もこちらについた。
藤姓足利、新田や波多野や三浦や集まってしまい、相模総出でやる感じになった。
久寿二年(1155年)、義賢の居処・大蔵館に打ち入った俺は、父の直下弟・義賢とその舅・秩父重隆を討ち取って、武名を広く轟かせることとなったのだった。
鎌倉悪源太
この大蔵合戦以降「鎌倉悪源太」と呼ばれるようになった。
「鎌倉の/剛勇な/源氏の長男」という意味であり、お手前がたの時代で使う“悪”の用法とはちと違う。
だが長男は長男だが、出自の違いは明確にある。
そういう意味では、俺は直下弟・朝長にも、次下弟・頼朝にも、身分では負けておったのだった。
特に頼朝は、尾張の名高い宮守の血筋だとかで、父はそこと縁付くために、関東の初手の降臨点、丸御厨を先方に寄進してしまっていた。
俺には亀ヶ谷があるとはいえ、相模の拠点を差し出されることは、あまり気分のよいものではない。
されど義朝父の上昇思考の中にはやはり、中央や、神官の系統とのつながりが大切とあるわけで。
長男は、ただ初生の意味のみで。
父もまた、ただ初生の意味のみの長子で。
ちょっとやるせない気分なのは多分同じだろうと思った。
大蔵合戦後
大蔵合戦は結局、秩父一族内部の家督争いに端を発し、そこに、源氏内部の争いが結びついたもの。
つまり私闘である。
ゆえに俺は中央から、お褒めではなく処罰を食らってもおかしくはなかったのだが、この頃父は武蔵守であった藤原信頼殿と関係を深めており、信頼殿の黙認があったとみえて、俺に処罰は一切下らなかった。
だが。
この藤原信頼と父との縁(えにし)が、結局俺たちを滅びに導いてしまうのである。
それでも地球は回っている