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「仕事に遊ぶ大人」であるための技術ってなんだろう

仕事か?暮らしか?遊びか?どれにも当てはまりどれにも当てはまらない生業や活動、あるいは人生における作品だと思えるようなアウトプット、自らの使命を果たすための仕事ー私はそれらを「ライフワーク」と呼んでいる。


ライフワークという生き方に憧れて

大学3年生の頃、ひょんなことがきっかけで世の中の当たり前に縛られず、自分がつくりたい世界を描いて、自らの手で生業をつくる大人たちに、自分が生まれ育った地域で出会った。当時、漠然と「熱量を持って打ち込めることを仕事にしたい」と考えていた私にとって、「私が探していたのは、これだ!私もこんな生き方がしたい」と思った。

結局のところ、「在り方」という抽象的な発見で、当時すぐには具体的な仕事は見えなかったけれど、漠然と抽象的にしか思い描けていなかった「こうありたい」を、自分の身の回りで実現している大人が何人もいることと、具体的なライフワークの形があることを知った時の衝撃はすごかった。

彼らの普段の仕事の裏側の苦労まで全てはわからないけれど、構想や義憤、自分の人生史を語り、それを実践に変えるその姿は、仕事という砂場で遊んでいるように見えた。ライフワークという生き方は、「仕事に遊ぶこと」とも表現できるかもしれない。

ライフワークと「仕事に遊ぶ」はイコールじゃない

時を経て、大学を卒業する前にライフワークの種を見つけた私は、それを実現する力を身につけるため、東京のベンチャー企業の会社員になる選択をした。生活資金を得ながらビジネス修行するライスワークの傍ら、副業や活動として自分にとってのライフワークを少しずつやってきた。

実践する中で、やはりライフワークをして生きることは理想の生き方だなと思う一方で、実際のところ、そう簡単に実現できるものではない。
他者から与えられる仕事でなく、自らの手で生み出す活動にはちょっと背伸びした挑戦の要素が大きかったりする。どんなに情熱をもってやりたいと思うことでも、それを実現するためのスキルや視点を自分が最初から持っているわけではなく、実践の過程でどうすればいいかわからない苦しみに必ず出会う。ライフワークをしているからといって、過程は必ずしも「遊んでる感じ」「楽しい」わけじゃない。

( What : ライフワーク )× ( How : その仕事の過程で遊ぶ方法 )= 「仕事に遊ぶ」

状況整理のための因数分解

湯気のように生まれては消えてなくなる「手応え」

どうすればいいか考え試してみるけど、すぐ結果になるわけでもなく、手応えを感じれない苦しさから、逃げ出したくなったり、目を背けたくなることがあった。やりたいはずのことも、嫌になったり怖いと思う瞬間もある。

ふと、小さな苦しさから逃げたくなる私に、本当にライフワークを形にする人生を送れるのだろうかと不安になった。自分が決めたことを実現して生きていく自覚が足りないのではないか。

漠然と日々の活動の「手応え」の有無に一喜一憂してしまうネガティブ体質の私を変えたいな、
とこの数ヶ月ひそかに思うようになっていた。

仕事に遊ぶ大人は、ライフワークを成す過程にある苦しさにどう向き合うのか

学生のときに出会った「仕事に遊ぶ大人」たちのように私は今、ライフワークを愉しめているだろうか。彼らはどうやって過程にある苦しさを乗り越えているのか?はたまた苦しいとも感じていないのか。

そんなことを考えているときに、久しぶりに東北へ戻り、大学生の頃にお世話になった大人の方との対話の機会に恵まれた。

その方に、「ライフワークを実現して、仕事も暮らしも遊びも溶け合う生き方って実際、楽観的でいられない躓きや困難も多いですよね?」と聞いた。
こんな回答をいただいた。

「確かにそういう感情や困難もあるよ。でもどんなに難しくて苦しくても、その仕事がやりたくない行きたくないって思ったこと1度もない。だって、その仕事・活動は自分の命を燃やすべきことだと思って、自分が選んだんだから。NPO立ち上げたんだから。過程にある苦しさは、成し遂げたいことの実現に向かっている感覚そのもので、できるに繋がってるって嬉しいし楽しいじゃん?」「その瞬間、その瞬間、目の前のことに真剣に向き合って全力でただやり切ってきた」

余暇とは何か?遊びとは何か?という対話の中で、ライフワークにおける苦しさの視点から切り取った言葉

それって楽しいって思い込んでるだけじゃん?と中には思う人もいるかもしれない。しかしこの人は、本当に誰がみても心から楽しそうに生きている。真面目に遊んでいる。その周りにはいつも笑いがある。人を巻き込む求心力がある。やりきる一択でとにかく迷いがない。それが余裕を生むし、遊び心を生んでいるのかもしれない。

私は、尊敬する「仕事に遊ぶ大人」に話をきいて、この人にも苦しいと思う感覚はあるんだ、と安心した。

【本題】ここから異なる2つの問いで答えを導きます

1.「困難をどう乗り越えるか」という問いから答えを導いてみる

同時に、ライフワークの中にある、困難とその苦しさにも逃げずに向き合うことを当たり前にしたいと思った。

逃げない、なんてメンタルヘルスが崩れるか崩れないか、の紙一重だから自分と約束することをやめた方がいいかもしれないけど、それよりも一つ高次元のところにいく必要がある気がした。

自分は絶対によりよくできるという根拠のない自信。その瞬間その瞬間に、全力で自分なりの正解をつくり出してアクションすること。自分の人生に対し、責任を背負う覚悟。関係性が崩れそうになる時ほど相手に正直である姿勢を忘れないこと。全力で向き合って生まれた答えの集合体が、自分の成し遂げたいことにつながっていることのワクワク感。

このように感情の転調を自らコントロールできることが、自分の人生で命を燃やすべき仕事を本当に仕事にし続けられる大人の「資格」なのかもしれない。

2.「困難をどう遊びに変えるか」という問いから答えを導いてみる

上記の章では「困難をどう乗り越えるか」という苦しさへの真向勝負のような向き合い方で思索を進めました。ネガティブからポジティブへの感情の転調は、意志の強さで何とかする。カリスマは、メンタル崩壊という概念を超えた次元の精神発達がある。
「困難をどう乗り越えるか」という問いで結果的に辿り着くのは、昭和にもありそうな根性論と反省文になってしまいました。

しかし、この記事で考えたかったことに立ち返ると、問いたいのは「仕事に遊ぶ」大人の要件。
もっと正確にいうと「ライフワークという仕事をどんな方法で遊んでいるのか」です。

( What : ライフワーク )× ( How : その仕事の過程で遊ぶ方法 )= 「仕事に遊ぶ」

再掲:状況整理のため因数分解

「仕事に遊ぶ」大人とは、自分の作品や事業の、成果や評価をみて喜んでいる人のことではありません。その人の仕事に取り組む過程において「楽しい」と思うこと。身の回りの人をワクワクの渦に巻き込むほどに、遊び心が滲み出ている人のことを、私は「仕事に遊ぶ」と表現したいのです。

ライフワークの過程にある困難に対し、マインドセットではなくもう少し具体的・技術的に答えを探ります。
さきほど話した方は、こんなことを言ってもいました。

「目の前の事象に、どう全力で向き合えたか、良い問いを自分自身や他者に向けられたかどうかで判断できる。困難があったとき、ただ図書館に行って本を読んでた時期もあったけど、あれは逃げだったと思う。本当に必要だったのは自分の頭で考えること、問うことだったんだなってあとで気づいた。」

「考えるにしても、世間や他人の人生のものさしから生みだす問いではなく、いかに当事者としての自分の切実な問題とか、自分のまなざしから問いを紡げるかどうかかなぁ」

対話後、さらに紹介してくださったvoicyと重なる点を抽出

要は、困難にあたった時はまずは自分の頭で考えること、問うことを大事にしている。そして、向き合うべき問いに対し、いかに当事者としての自分の関心やエッセンスを詰め込めるかが大事している、ということを伝えたかったのかなと解釈しました。

思考実験 : 問いで遊ぶ

ここで「問いに自分というエッセンスを詰め込む」という文脈をもう少し強く引っ張ると、なんだか「問いづくり」 には少し「表現」の要素があるとも感じます。

上述の問いに、今ライフワークの過程に「遊び」「楽しい」感覚が不足しているという切実な自分の問題意識を足して言葉遊びしてみると……

【Before】「困難をどう乗り越えるか 」
【After】「困難をどう遊びに変えるか」
すなわち「困難を解決するためどう問いで遊んで、どう自己表現に変えるか」

問いの転換

え、面白い!楽しい……!
問いというフォーマットに今の自分を映し表現することは、なんだか遊びの感覚と似ている……?

言葉は自由律俳句、行動はパフォーマンス。
自分のもとにやって来る苦しい難題も、まずは「まだ見ぬ私をここに立ち上げよう」とか「言葉の表現で遊んでみよう」とか「これは好奇心の湧く新たな問いづくりだ」という遊び心をもって向き合ってみる。
すると、嫌だ・怖いというネガティブな感情は自分から剥がれていき、1つひとつのできごとによって、自分は創造的な表現者や探究者に変容を遂げていくのだ。

未知に挑むからこそ解きたい問題・困難は生まれる。その問題は、乗り越えるべき試練でなく、むしろ新たな探究の始まりや自らの創造性を発揮するための究極の「遊び」だと捉えてみたい。

問いのデザイン。創造の定義と遊びの拡大解釈。
これが私が考え抜いた「 『仕事に遊ぶ』 大人であるための技術とは?」 の現在の納得解。

仕事と暮らしと遊びが溶け合うように生きるために、その時なにがどう難しいと感じてどう向き合うか?
これからも丁寧に問うていけたらと思います。


あとがき

ここまで読んでくださっている皆様、長い思考実験にお付き合いくださりありがとうございました!
向き合い方を変えるため、思考実験のような形になりました。しっかり考え抜くことができたので、当分は、この記事で見つけたクリエイティブでありたいという気持ちが駆動させる遊び心をもって、日々の活動の困難にも挑んでいきたいと思います。

また、このnoteを書く時間はとても有意義な時間になりました。特に後半は「同じ事象に対し『問いのレトリック』の異なる2つの問いを用意すると、答えがどう変わるのか」という問いを持ち、自分にとって初めての実験的な形で思索を進め方をしました。そういった意味では、この記事を書く過程でも、一つひとつに遊び心をもって挑むことができました。
問いの表現をみつけた瞬間、もうこの瞬間から少しずつ、仕事や活動で遊べてるかも!と実感できて嬉しかったです。

さて、次の記事では「仕事に遊ぶ」「ライフワーク」からもう少し間口を広げて、
「'仕事脳'から解放されて、遊ぶにはどうしたらいいか?」について考えてみたいと思います。


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