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『宝石の国』感想(10巻まで)
これもアニメから入って(黒沢ともよさんのウザ可愛い演技が好きだった)、しばらく忘れてたんだけど急に続きが気になって最近一気に読んだ。
主人公たちのからだは宝石でできているという設定なので、このように色がうっすらと光に透けるような描き方がされている。彼らは食事もしないし、敵に砕かれても死なないし血が出ない。『死』という概念のない種族なのである。
これは、主人公のフォスフォフィライトがいつかは死にゆく定めを持った種族アドミラビリスから、『死』について話を聞くシーン。
このページなんかもそうだけど、叙情的な「間」を感じさせるコマ割りが多い作品で、そこも私好みだった。例えば、この1ページに描かれている内容に、殆ど場面転換やアクションはない。ただ主人公の髪が風に吹かれて揺れただけである。だけど、主人公のちょっとした目線や仕草で彼(彼女?)の心の動きがわかる。この「間」が好き。
宝石のからだを持った彼らは、現実世界で私たちが心配しなきゃいけないような『死』『病』『老い』『性』『食事』『排泄』といった煩わしい生々しい問題から解放された存在なので、彼らの生きる世界は常に美しく、静謐な空気がながれている。
よくもこのような設定を思いつくものだなぁと感心してしまう。市川春子さんは、地質学や生物学への造詣が深い作者さんなのだろう。他の作品でも、貝や植物や鉱物などのモチーフがよく使われている。
では、この作品は不老不死でインクルージョンの(彼らの体内で共生している微生物)光合成で生きる宝石生命体たちが住まう楽園を描いた御伽噺なのか?そうではない。彼らは長く月人という謎の存在に狙われて続けているので、戦わなくてはいけないのだ。死なない存在であるにも関わらず、彼らは頻繁に体を損ない、仲間を奪われて失う。
主人公のフォスフォフィライトは、生まれつき脆い体を持ち、不老不死の宝石たちの中でも一番の末っ子で、手先も不器用。強くなりたい!みんなの役に立ちたい!という気概だけは立派だが、ハイハイとみんなにいなされる『みそっかす』だった。
何の取り柄もないけれど、純粋で優しかったフォスフォフィライトは様々な出会いや事件を通して、みるみる変わっていく。速く強い体を手に入れ、知識を得て、世界の真実に近づいていく。フォスフォフィライトは変わり続ける。
表面的にはサクセスストーリーのようだけれど、彼はその実、多くを失っている。そのことに自分自身でも気付いているが、『前に進むしかない』。
弱かった頃の彼も孤独やもどかしさを抱えてはいたが、強くなった彼はそれよりもずっと孤独である。フォスフォフィライトは閉じた世界の真実に肉薄したパイオニアだが、仲間には理解されず危険視されてしまう。10巻のラスト、彼が『裏切った』金剛先生だけが、フォスフォフィライトのことを理解し慈しんでいるように見えた。皮肉な話だ。
「先生は祈ってくれるだろうか?......大丈夫。だって、先生はいつだって、ぼくに優しい」
そう思考した直後、ひとり愕然とするフォスのシーンが、わたしはとりわけ悲しくて好きだ。
エクメアと恋に落ちたカンゴームを筆頭に、フォスフォフィライトと共に月に行った仲間たちの変化にも考えさせられた。
無邪気で穢れない存在だった宝石たちが月人の文明や世界の真相に触れて「俗物」に貶められたような印象を私は持ったのだけれど、それはこちら側の勝手な理想の押し付けかもしれないと一方で思う。
彼らはただ、『前に進んだだけ』なのだ。違う存在だからこそ、彼らは争った。そして今、違う存在だからこそ、月人の文明や存在に憧れる。
「フォス、月に連れてきてくれてありがとうな」
カンゴームがフォスフォフィライトにこのように告げるシーンが印象に残っている。こんなにも突き放すような「ありがとう」という言葉、この感じを表現できるこの作品はすごいと思った。
この「ありがとう」は「お前はもう要らないよ、さよなら」ということなのだ。
カンゴームは酷いやつだろうか?
彼を信頼していたフォスフォフィライトにとっては、裏切りだと思うかもしれないし、もう一つの人格だったカンゴームの遺志を継いで、なんだかんだ文句言いながらも仲間想いなかつての彼は美しく見えた。
しかし、このカンゴームの遺志は彼にとっての束縛で、本心では自由になりたいと思っていた。それを解放したとき、カンゴームは幸福になった。「自由になって、幸せになりたい」それは何ら、責められる謂れのないことだ。
カンゴームはフォスフォフィライトに言った。
「お前、もうここにいない仲間のために、今そばにいる仲間のことを危険に晒すのやめろよ。お前は、自分の力でコトを動かしてると思ってるかもしれないけど、実際は誰かがいつも察してお前に協力してやってんだぞ」
この台詞は、非常に刺さった。確かに、喪失を取り返そうとするフォスフォフィライトの大義は美しいが、今ここにある幸せを犠牲にしてまでそれを為したいとみんながみんな考えるわけではないだろう。
宝石の仲間たちは、ごく自然に別々の方向をむいて歩いていく。この物語が辿り着く果ては、一体どこだろうか。