JOKERは腐敗した街から生まれた

金曜の夜に観てからずっと、ジョーカーやアーサー・フレックのことばかり考えている。「この映画は頭の中をいじってくる、洗脳される」と、地元の大学教授がラジオで興奮気味に語っていたけど、それってこういうこと?

ジョーカー。私個人としては、共感できるところの多い映画でした。自分が普段考えていることと結構同じだなと思う部分がたくさんあったので、主人公がたくさん人を殺すにも関わらず意外と不快じゃありませんでした。主人公のアーサーのことは、嫌いじゃありません。寧ろ、かなり好きです。ただ、だからこそ、この映画は怖かった。だって、現実にアーサーみたいな人が自分の街にいたら私はきっと迷惑だとか酷い男だとか社会のクズだとか思ってしまうに違いないから。

主人公のアーサーは、貧乏で仕事もうまく行ってなくて障害持ちで、心臓の悪い母親と二人暮らし。1日の終わりに住んでいるアパートへ続く長い長い階段を上る彼の足取りは、とても重くて、見ているこっちが辛くなって来ます。

貧困。

今の時代ってお金さえ出せば何でも手に入るけど(特に都会は)、それって物質的にも精神的にも格差が広がる一方ですよね。元々存在しないものが入手不可能なら仕方ないかと思えるけれど、「自分は貧乏だから手に入らない」と思うとどんどん惨めになっていくし。

社会がダメになっていくときって、サドンデスゲームみたいに一番外側の床が抜けていくイメージなんですね。みんな落っこちないように真ん中に寄ろうとするけど、溢れた外側の人は床から落っこちてしまいます。

社会のサドンデスゲームで落っこちてしまう外側の人間って、まさに主人公のアーサーのような人です。中心に近いところで、ぬくぬくしているエリートだのお金持ちだの人気者には、彼が人知れず落っこちたことは見えてすらいない。アーサーよりも少しだけ内側でサドンデスゲームをしている人には、アーサーが落ちたことは見えてる。だけど、彼らは自分のことで精一杯ですから、助ける余裕はない。寧ろ、「自分より劣っている人間が自分の代わりに落ちてくれた」と、そう感じるかもしれない。

映画の中で、アーサーのことを助けてくれる人はひとりもいません。電車でもバスでも路上でも病院でも職場でも、みんな冷たい。だけど、私もきっと彼らの一部なんです。もしもその場に私がいても、アーサーに手を差し伸べることはしないでしょう。社会人として、ほんの少しだけ親切にしてあげることくらいはできるかもしれませんが、でも、きっとそれだけで終わりです。

もしも、誰かがアーサーを助けることができれば、本当に幸せにしてあげていれば、父親のように優しく力強く抱きしめてあげていれば、ジョーカーは生まれていなかったでしょう。だけど、そうはならなかった。

ゴッサムシティの史上最悪のヴィランを生み出したのは、乱れ切った社会や、他人を省みる余裕もなく鬱屈した市民たちそのものと言えるのではないでしょうか。

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