はじめに、名詞を忘れる
こんばんは。
この連休が終わったら現実の労働と対面しないといけない網野です(--〆)
のらりくらり遊んでる時間ってなんて早いのでしょう!
変な時間に起きてのいつもの考えながら書く日記です。よっぽどお暇なかただけどうぞ。
ネットサーフィンをしてました。あるきっかけから
川口アパートメント(私の世代ではもう知らないに決まってる川口松太郎ゆかりのマンション。なんと今でもあり空きなしで憧れが続行中らしい。昔の時代の先駆者達がこぞって住んでいたらしい)
川口アパートメント→居住者だった安井かずみ→自殺した夫の加藤和彦(正直この時代はもう全然分かっていない)→安井かずみの親友だった森瑶子
あ、知ってる!10代だった私がこの人の実体験小説とも言えるような『叫ぶ私』や『夜ごとの揺り籠、あるいは戦場』を読んでひりひりした虚無感に共鳴して何度も読んでいた。
森瑶子は忘れられた作家だ。多作で彼女の文章を上手いという人に出会ったことがない。
でも今でもすごく私よりかなり上の世代の(多分)ふだんあまり本を読まない女性に人気がある(と思う)
それでも芥川賞候補に挙がったこともあるし、NHKで「マッサン」がやっていたころはこの脚本家は確実に森瑶子の『望郷』を読んでパクってるよね?という質問がヤフー知恵袋にいくつも上がっていた記憶がある。
林真理子が一時憧れていた作家。
あるブログでは森瑶子が生涯をかけて守った美意識は山田詠美が受け継いだ。と書かれていて私はうまいことを言う人がいるものだ。と思ったことがある。実際二人は親交があった。
安井かずみと森瑶子。
自分のイメージを死ぬまで守りきったふたり。
昨日夢の具現化についてつぶやいたけれど70年代この二人は女性の夢の具現化だったように思う。
安井かずみはどうしても好きになれないけれど森瑶子は好きだった。
1. 人のせいにせず、苦しみや痛みを自分で引き取る。
2. 仕事を持ち、夫に頼らないだけの自分の収入がある。
3. 結婚している。あるいは男と暮らしたことがある。
4. 子どもを産み、そして育てた経験がある。
5. 男をすべて恋人にせず、友達づき合いできる男がいる。
6. 一人でレストランやバーへ行って、食事ができ、お酒が飲める。
7. しゃれた会話ができるような、インテリジェンスがある。
8. 年齢を重ねていっても、決して感性が衰えない。
9. どんなことにも好奇心を持って接することができる。
10. 自分が不幸な状況にあっても、人に対してやさしくできる。
森瑶子が掲げていた大人の女の条件10訓だ。
自分が掲げた10訓を、守りきって亡くなった人だった。
1.10をあげているところに頭が下がり、思わず手を合わせたくなる。美しいと思う。
これ守ろうとしてたら早く亡くなってしまうわーと。ただのヒモみたいな男だった
英国夫とも別れられない彼女の脆さも好きだった。
そういえば安井かずみを安井かずみとして死なせてその後自殺した加藤和彦は松任谷由美もサポートした時期があったらしい。なんか、わかる。
サディスティックミカバンドの再結成?の最後のボーカルは木村カエラだったらしく、言葉に出来ないが、いよいよわかる。
そして私は、冷笑してしまう(ごめんなさい。夜明けに書いているので。平常では笑っている奴が一番あんぽんたん。と認識できまする)
上手く書けないけれど山田詠美が処女作で
「あなたの肌って、ほんとうにエボニーね」と愛おしく黒人の恋人の背を撫でるシーンの描写を読んだ時のあの感覚。
友人に「山田詠美、再婚したよ!日本人だよ」と言われた時の、きっとそうだろうあのシーンを読んだ時からわかってたよと返答した時の自分のあの感覚。だ。
私は読詩会の最後の冊子で氷見敦子を取り上げ、松任谷由美を取り上げた。彼女の曲は好きだし死んだ姉も大好きだった。
でも夫と結婚する時の条件で「子供は産まない」(作れない。では、ない。)という条件があったのを知り(ガセだったら本当にごめんなさい)ものすごく憤りをかんじてしまった。
日記だから書かせてね。言葉酷くなります(暴言注意)
こいつ、時代と寝たくせに、結婚のフルコースすら最後まで引き受ける気概がないんか。
どういうつもりで曲作ってきたんや。責任とらんかいぼけ。
たしかに頭は弱かったかもしれんけどあなたの歌う女性像に憧れて実践しそんなに強くなれなくてズタボロになっていった70年代の女性達がぼろぼろ存在するやで!
自分はセーフティゾーンにいて、えらそーに物申して新しいかっこよさとは?なんて提言してカネもうけるなんてお前は糸井重里か!(お許しください)
大嫌いじゃーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!
と。
カッコよさなんて人に押しつけられて盲信する事態ですでにダサいで!ともいいたくて
「氷見敦子」を取り上げた部分もあるのだ。誰も物申さない松任谷由美に物申したくなったのです。無性に(ああ、あまのじゃく)
引き受けるとはどういうことなのだろうと最近の私は考える。
過度な責任感は身を滅ぼすのかもしれない。
そもそも引き受けるなんて大層な事できないのかもしれないし。でも、最初からやってもみないで出来ないから、と逃亡を図るのは違う気がする。
ただ最近もう一度『ポエトリーアグネスの詩』
という映画を見直して。私の憧れている(求めている)
詩を書くという「行為」はこの映画のなかにあると思った。
書くという事のおぞましさもおそろしさもこの映画の中にあると思った。
監督が
多くの監督が楽しそうに映画を作っているのをみて自分はどうしてそうなれないのかと思っていた。撮影現場に行く自分の心境はさながら屠殺場に連れて行かれる牛の気分なのにと答えているのを見て思わずうなずいている自分がいた。
いい悪いでなく、たのしく書いている人を否定したいわけでなく
私も、なぜ自分が、文学少女でもなく、読書家でもなく、野心家でもなく(むしろ顔をそむけたくなるくらい苦手だ)言葉に強いわけでもなかった自分が、今も詩を書いているのか、わからないから。
楽しく書いてなきゃ正解じゃない!のこの時代の流れで、そんな気持ちを持ちながらでもこれだけ私の心を揺さぶる映画を作る人の存在を知れたから。
映画『ポエトリー、アグネスの詩』で
あなたはアルツハイマーですと宣告されるシーンがある。
医者が言う。
「名詞から、忘れていきます」
主人公のミジャが言う
「名詞が一番大事なのに」
ミジャは60代半ばでいつもおしゃれな格好をしている。帽子をいつも被っている(そういえば森瑶子といえば帽子でもあった)街ゆく人や幾人かの人に
「おしゃれですね」
と言われるシーンが何度もある。セリフもあまり多くないこの作品で、極端に抑制されたこの作品で何度もこのセリフが出てくる。ミジャは生活保護を受けて暮らしている。
安井かずみの歌詞、松任谷由美の歌詞、森瑶子の文章には
これでもか、と、その時代の(今でも通用する)お洒落な名詞が氾濫している。あの時代に多くのハーブの名前の歌詞があると言われたのは安井かずみだ(ドトールも出てくるらしい)
名詞から忘れていきます。
ミジャはある時から帽子をかぶっていない。
シャワーの音に紛れるように慟哭したり、見方によってはお金を恐喝するけれど(ちゃんと映画を読みとけばわかるけれど)
どう受け取られてもかまいません。
とだけ告げて
たった一つの詩を書きあげる。
もしかして生きることに、名詞は一番必要ないのかもしれない。
(正真正銘の一気書き。)
アンビリーバーボーな薄給で働いているのでw他県の詩の勉強会に行く旅費の積立にさせていただきます。