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こんな記事をあげましたが・・・・。

その中で出ていた「『1+1=2』みたいに、何かしらの肩書きを持って生きなければいけないんだと思っていた」ことについてもう少し掘り下げようかと・・・。

行き着くと、自分は生きていることにどんな価値があるのか、ということ。
ずいぶんネガティブな考えになっているけれど、私っていつもそういう方向に流れてしまうのよね〜。
でもって、あーでもないこーでもないと頭いっぱいになっている内に、頭は痛くなり、顔の筋肉は強ばり、無口な私になるわけです。最近はそんな毎日で、子どもに保育園で何して遊んだの?とか、そういう親子らしいコミュニケーションが取れていなかった。反省・・・・。で、また負の渦に巻かれる。という繰り返し。

夫に話そうと何度も思ったけど、何をどう話していいか分からなくて、夫の話を聞いてあげたり、同意することで、その気持ちを誤魔化していました。
でも、あまりにも無気力な私を見て(そうだと思う)あっ、このままじゃいけない、と思って切り出した話を、夫は眠い目を擦りながら聞いてくれました(ありがとう)

話をしてみるといいもんですね。自分の頭が整理できるから。まだスッキリと解決できたわけではないけれど、霧は晴れました。正直、やりとりを思い出そうとするとまた負の渦に巻き込まれそうになるから嫌なんだけど、要はこれからどういうことで身を立てていくべきか、という将来の不安に駆られていたようです。

「それはそれとして真剣に考えていくとして。でも、やってみないと分からないことがたくさんあるから、やってみて考えてもいい。考えただけで分かるものはホンモノではないよ」
夫の言葉一つ一つが胸に刺さります。


「何にもない」と自分のことをそう思っていたんです。
「何にもない」自分がこれから何に向かっていけばいいのか、このまま子どもを育てながらパートのおばちゃんになるのも悪くはないけれど、子どもばかりに捉われた人生は過ごしたくない。これは、自分が「子どもに捉われている雰囲気」で子ども時代を過ごしてきたと思っているから。
過干渉、ということなんでしょうが、うちの母は変わっている気がしていたが、自分が大人になってから、その変わっている原因というのが何となく分かってきました。

母は自分の人生を生きているようで、生きていなかったのではないかと思ったから。本当はやりたいことがあったのかもしれないけれど、母の中に「守りたいもの」が「石」のように鎮座していたのではないかと。気づいたら、家でもどこでも自然な顔して座している。「子どもに捉われている雰囲気」と思ってきたけれど、その「石」が邪魔をして、母も私も窮屈に感じていたのかもしれない。
私が結婚して家を出てからも、「石」に捉われ続けていたように感じます。

コロナ禍になってから、母と少しだけ距離を置くようになってから、地に足をつけて生きていくためのことを一生懸命考えるようになりました。それは「石」が半分ほど取れてきて、外の空気を取り込みやすくなってきた、ということなのかもしれないと、夫と話をしていて思います。
その「石」によって散々振り回され、辛い思いをたくさんして、、ということがあるからこそ、自分の子どもをそんなもので縛りつけたくない、と無意識の中で意識している私。もしかしたら、私の中に知らず知らずの内に形成されている石があるかもしれない、だけどそういうこともあるんだと分かっているだけでも母とは違うかもしれないと、私を責めないようにしています。

また色々ありますが、今日はこの辺で。

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猫本コウヨ
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