─WERK OHNE AUTOR(ある画家の数奇な運命)
kino cinema 横浜みなとみらいで鑑賞。初kino cinema。シアターをもっともっと開拓していきたい所存。
3時間という長尺…。お尻が痛かった…。でも長い映画こそ、映画館で観るべきな気がする。
高校生の頃、映画研究部(同好会だったっけ)の友人に借りた「シンドラーのリスト」を自宅で見たのだけど、これはDVDが2枚に分かれていて、なんというか集中が途切れてしまった記憶がある。もっとも、海外の映画館などでは途中に休憩を挟むらしいので、前半の内容を反芻できるという意味ではいいのかもしれない。
この日は、観に行こう!と思っていた作品が上映終了していたんですよ…。だけども無性に映画館で映画が観たくて、何かいい映画はないものかと探したところ、本作に出会ったので観て映画館で映画観たい欲は解消されたので良し!
そんな不純な動機だったから、ドイツの作品だなんて知らなかったんだけども(主人公のモデルである現代美術の巨匠とされるゲルハルト・リヒターという名前も、観た後にぐぐったことでようやく知った)、とてもドイツ語の勉強になりました。
Auf Wiedersehen! って言ってる!!とか低レベルながらに感動してしまった。
ドイツを舞台とする映画
ドイツの芸術家の半生を追うというストーリー。主人公は第二次世界大戦前のドイツ生まれているので、当然のことながら戦争のことやらナチのことやらがでてくる。
珍しかったのは、ユダヤ人の迫害ではなく、ドイツ人の精神病患者や障害者など、どこぞの誰かによって判断された「正常でない」「劣る」人たちが「断種」された安楽死政策について触れていた点だ。というか、この安楽死政策なる存在も、映画を観て初めて知った。
名付けてT4作戦なるものが存在したらしい。
観ていて衝撃的すぎた。無かったことにしてはいけないというのは、こういうことを言うのだろうと思う。
『灰色のバスがやってきた―ナチ・ドイツの隠された障害者「安楽死」措置 』https://www.amazon.co.jp/dp/4794204450/ref=cm_sw_r_cp_api_i_D0vKFb6Q3E4WH
自己肯定感低めな私からすると、何をどうすると「自分は他人より価値のある人間だ→他人は自分ほど価値のない人間だから存在しなくとも問題ない」だなんて思えるのか甚だ不思議だ。
今回は画家の半生を描く映画だったけども、「人が人を裁く」「人が人を選ぶ」ことの不条理のようなテーマは、どのジャンルにも共通するのだろうか。
「人」の社会から映画が生まれる限り、その社会で人が人を裁かれる限り、テーマであり続けるのかもしれない(もっとも、人の上に位置する存在が登場したらまた話は別だ……とか思ったけど、宗教裁判は人の上に立つ神の名の下に行われていたのだろうし、現代の裁判にしても、下された判決を受け入れる人が大半なのは、法というのは人の上にあるということを示しているのかも知れない)。
戦争という特殊な場だけでなく、日常でも「人が人を裁く/選ぶ」という行為は存在する。法治国家においては守るべき法律があるのだから、それを犯した人を裁くのは法律が機能している証拠だとして、選ぶという行為については、あらゆる「差別」という形で現出している。差別を補強する法的根拠は無く、特定の分野においてはむしろ差別を禁止する法律があるというのに。
文化も社会の資本
東ドイツの芸術大学?美術大学?の教授が「人民のための芸術」について云々と言っていたシーンがあった。
「芸術は誰のものなのか」というようなテーマってあると思うけど、それと関連して、共産主義下の「人民のための芸術」という考え方について、哲学的な学問において研究とかがありそうだと、ふと思った。
この映画からは、ドイツにおいては芸術にも哲学が存在していて、そのことを芸術家自身も認識しているように感じられる。さらに、鑑賞者もそれを汲み取ることのできる土壌のようなものが発達している。今この瞬間(コロナで文化へのサポートが足りてないと言われる日本の現状)に目を向ければ、日本よりもドイツの方が芸術や文化に対する関心(支援的な意味で)は高そうだ。
誰かの「まず芸術家が自由でなければ(誰が自由でいられるのか)」というセリフも考えさせられた。でも自由ってなんだろう。
哲学ちっくな
「作者なき作品」というテーマに込められた哲学については、私はよく理解できなかった。もちろん、ここでいう「作者」が製作者としての作者を指すのでないことは理解した。製作者のない作品は存在できないから。精神的な意味での作者ということなのだろうか。つまり、「作者なき作品」とは誰が作り上げても同じものになる作品とか、そういうことなのだろうか。
「真実はすべて美しい」という台詞も、キーワードのように出てきた。この台詞も「作者なき作品」に掛かってくるのだろうか。真実は誰かによって作りあげられるものではなく、そこにあるものを、たまたま誰かが目撃して、「真実」と認定される。認定させるというか、もう物事全てが真実なんだろうか。いずれにせよ、真実はすべて「美しい」と言うためには、その真実の価値が絶対的なものである必要がある。そして、誰かが拾った(切り取った)その真実(事柄)で、製作者が構成した作品だから「作者なき作品」になるとかそういうこと?うーん、論理的に考えるのは得意じゃない。
こんな風に哲学的、論理的に考えさせられる映画、ドイツならではなのかな(偏見)
ドイツの映画ってあまり観ないから分からないけど、アメリカンジョークが入ってくるようなタイミングで哲学的な思考が披露されていて、とても偏見だけど「ドイツっぽい…!」と思ってしまった(2回目)。
デカルトの流れとか。うんうん。
義父のその後については若干の消化不良だったけど、芸術に限らず「軸」があることは美しいなと思った。自分に軸がなく、ふらふらしているからこそ、こう感じるのかもしれない。
誰かが「ヒトラーを知らない中学生が出てくるかもしれない」と危惧していたけど、知っている私からすると、まじで、それは知っていてくれ、と思う。映画には(フィクションであるとしても)そういう記憶を繋いでいく可能性・使命もあるのかなと思う。
とても考えさせられる映画だった。
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