─『ゴールデンスランバー』

伊坂幸太郎の作品はあまり読んだことがなかった。むしろ、『重力ピエロ』の一冊しか読んだ記憶がない。この本のストーリーも、全くと言っていいほど覚えていないのだけれど、「『重力ピエロ』を読んだ」ということだけは記憶している。これは恐らく、装丁とタイトルが強く印象に残っているからだと思う。伊坂作品を大して読まない私が言及するのは憚られるけれど、伊坂作品の装丁(表紙)には共通した、そして独自のコンセプトがあるように感じる。

話を戻して、今回、韓国版の映画『ゴールデンスランバー』を見に行ったきっかけは、韓国ノワール映画が好きな友人がいたことだった。そのため、ここに記す内容もそういった視点からのものが多くなるかもしれない(追記: 文章を書いてから読み返したけれど、全くそんなことはなかった)。

『ゴールデンスランバー』を見に行くにあたり、私の予備知識は、
①伊坂幸太郎の『ゴールデンスランバー』を元にした映画であること。
そしてその原作は
②「一人の男が首相暗殺の濡れ衣を着せられて、逃走する話」
程度にしか備えていなかった。

原作との比較ではなく、純粋に映画を楽しみたいのであれば上記の、私程度の予備知識で充分にストーリーを理解することができると思う。

ただ、そもそも主人公が濡れ衣を着せられる事件に関しての情報量は、劇中のものだけでは不足に感じた。それは、本作が日本とは政治制度の異なる、韓国の事情を踏まえたものであるからかも知れないし、そもそも政治のドロドロのような描写がさくっと流されてしまったからかも知れない(この分かりにくさについて、友人は、ショットの順番構成について指摘していた)。

この投稿にぐだぐだと難点を上げていく趣旨はないので、以下、韓国版映画『ゴールデンスランバー』を見て感じたことを、記録の意味も兼ねて書き連ねようと思う。

ネタバレになるので、まだ見ていない人はここで指を止めておいてほしい。



最初に印象に残ったのが、冒頭のシーン。
ニュースが次々と大量に流され、それとともに映し出されるビル群が回転して上下が逆さまになる描写だった。

一言でいえば、気持ち悪いものだった。不快という意味ではなく、どちらかと言えば気味が悪い、と言った方が近いのかもしれない。
気持ち悪く感じたのは、主人公が濡れ衣を着せられる過程を重ねるとよく分かる。

「平凡」だった主人公キム・ゴヌ(劇中で、権力者による陰謀が画策されるに際して、「平凡」であることはかなりのキーワードになっている)は、(権力者が意図した)マスコミの連日の情報操作によって、犯罪者・大統領候補暗殺者として仕立て上げられた。マスコミは、真実かどうかも分からない情報を、さも既成事実であるかのように流し、結果、白を黒にすることに大きな影響を及ぼしたのである。

最初にこのシーンを見たときは、耳から入ってくる情報の多さ・視界が上下反転した事自体が、身体的に気持ち悪さを感じさせるものだった。
それに主人公の背景を重ねたとき、マスコミの情報操作による真実の歪曲という気持ち悪さが加えられた。先程から気持ち悪いと述べているけれども、私自身はこうした二重の意味を重ねてくる演出がとても好きだ(元より暗喩的なものが好きな性質であるためだろうけれど)。

次に印象に残ったのが、本作、そして恐らく原作も、友情が核となってストーリーが進んでいくということだ。本作を見る際の私自身の予備知識が、下記のようなものであったため、

①伊坂幸太郎の『ゴールデンスランバー』を元にした映画であること。
②「一人の男が首相暗殺の濡れ衣を着せられて、逃走する話」

事件がメインとなるアクション色の濃い映画であるのかと思っていたが、それがどうも、いい感じで裏切られた。

聞いた話によると、原作はさらに回顧のシーンが多いとのことで、それはタイトルが『ゴールデンスランバー』であることと、きっと強い相関性があるのだろう。ゴールデンスランバーがどのような曲であるのかは、私も映画を見た後に調べて知った。逆に、ゴールデンスランバーという曲、そしてBeatlesのことを知っている人であれば、友情というワードを連想するのは容易であったのかもしれない。

個人的には、主人公を含めた5人の友情と、
権力の陰謀、そして、それに追従せざるを得ない・追従してしまう世間という、濡れ衣を着せられた主人公には非常な社会とを対比することで、彼らの友情の暖かさ・懐かしさが前面に引き出されているようにも感じた。

実際、気弱な弁護士の友人が主人公キム・ゴヌを、犯罪者として売ってしまうような場面、また別の友人がゴヌを売ったと、ゴヌの誤解を招かざるを得ないような場面もあった。それでも、ゴヌが共犯として捕らえられた友人の無実を証明するために、危険を冒して再び表舞台に出るなど、最終的には彼らの友情は強固なものであったことを魅せてくれた。

映画の背景的な要素に触れるとするなら、私自身の持つイメージではあるけれど、権力による情報統制や陰謀、「シリコン」といった整形関係の事柄は、韓国社会の裏事情のようなものと、しっくりと合っているように感じた。
特に「シリコン」という存在は、個人への権力の干渉力・強制力の強さのようなものを感じる。原作では、主人公が自ら整形をするらしいけれど、「顔を変えなければ生き延びられない」という間接的な強制力はあったにせよ、自分で整形することを選択している。

しかし本作では、権力の作戦の成功のために、一人の人間の意思など介入する隙がなく(もちろんそういった見せ方であるのだろうとは思うが)、徹底的に使役している。

映画鑑賞の記録、という本筋からは離れてしまうような気もするけれど、いくら「自由」と「平等」を掲げる社会になったとしても、なんらかの形(そしてこれは時として、目に見えないものもある)で、一方的な権力の作用というものは残されているのだなとつくづく感じた。

そしてこれは本作の本質ではないと思うけれど、感じたこととして。最近はネットニュースの充実かなんかで、マスコミ(テレビや新聞など)の影響力が薄れているような気もするけれど、本作の中では権力の一端を担うものとしてのマスコミが強く描かれているような気がした。

ただ、冒頭ではマスコミの報道によって平凡な市民であったゴヌが、「犯罪者」キム・ゴヌに仕立て上げられるのに対し、クライマックスでは「キム・ゴヌ」として再び生きるための生還(権力への復讐)を果たすことに貢献している。

マスコミの影響力が、冒頭とクライマックスとでは、主人公にとって正反対に作用しているのが面白くもあり、また、変な感じでもあった(多分、この変な感じというのは、主人公をどん底に落としておきながら、悲劇の主人公として正反対の待遇で迎えることに対する気持ち悪さなんだと思う)。

ここまでぐだぐだと韓国版『ゴールデンスランバー』を見て感じたことを連ねてきたけれど、私としては映画のラストで、(winnerのカン・スンユンがカバーした)ゴールデンスランバーがどーんと、本当にどーんと流されるのはずるいと思った。

確かに友情を核として、学生時代の回想のシーンが多かったりしたから、「感動させる」という伏線はあったのかもしれないけれど、映画のメインストリームはゴヌが犯人とされてしまう「事件」なのだなと感じていたせいもあって、余計に視界が滲んでしまった。

このシーンがあって初めて、『ゴールデンスランバー』というタイトルの意味が完成するようにすら感じた。繰り返しになってしまうけれど、私はまだ原作を読み終えていない。しかし、伊坂幸太郎が意識的に、あるいは無意識的にこの作品に込めたテーマのようなものを、きちんと映したかったのだなと伝わってきた。

鑑賞後に、周囲の観客が「日本版よりも明るかったね」と言っていたらしいから(これもまた友人が教えてくれた。私は耳が悪いから、周囲の人の反応はほとんど分からない)、本作と原作ではまた雰囲気が違うのだろうけど、それでも、ひっくるめて『ゴールデンスランバー』が好きである予感がする。

原作を読み終えたら、また綴ってみようと思う。


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