革命を起こして大富豪になる夢しか見れない社会なんて。─『JOKER』

『JOKER』を見てきた。

JOKERを演じたホアキン・フェニックスには終始圧倒された。ピエロの走り方に始まり、病的な(実際その笑いを病気だとする描写がある)笑い方、極めつけはアーサーの歓喜の舞とでもいうべきダンス。指先の動きまで目が追うことを止められなかった。おかげで目が疲れたけど。

冒頭から不穏、不穏、そしてさらに不穏、の連続で、いつJOKERが生まれてしまうんだろうとハラハラしていた。

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『JOKER』のプロモーションで、「笑いの「仮面」を被れ」をいうコピーが付けられていたけど、「仮面」というのは、『ダークナイト』と『JOKER』においてはすごく重要な役割を果たしている気がする。

『ダークナイト』では、ピエロのメイクを施したJOKERは殺人予告をし、それを止める条件としてバットマンが仮面を取ることを迫っている。仮面をつけなければ正義を実行できない奴は、臆病者だとして。

『JOKER』では、トーマス・ウェイン(つまりバットマンの父親)が「仮面を被らないと行動できない人々」として、ピエロの仮面を被って抗議する人々を批判していた(もちろんその「仮面」は、アーサーのピエロメイクも想定されていると思う)。

ただ、アーサーはピエロのメイクを仮面と考えてはいないのかもしれない。警察がアーサーを追いかけるシーンで、ピエロの仮面であふれた電車内へ逃げ、誰かの仮面を奪ってその場をやり過ごしていたけど、その後、その仮面をあたかも自分には不要だ、とでも言うかのようにゴミ箱に捨てていたから。

仮面については、最近も世界を騒がせている話題がある。香港の「覆面禁止法」だ。人々が覆面をする理由は、『JOKER』のそれと似ていて、素顔で抗議することは、その抗議が正しいものであったとしても、自身を危険に晒すことにつながるからだ。素顔で抗議しないことを批判するのではなく、素顔で抗議できるような社会がないのが原因なのに。香港に限らず、犯罪やハラスメントの被害者(とりわけ性犯罪)にも目を向ければ、日本でも同じ状況が起こりえると分かる。

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映画の形式上の枠となるタイトルシーンと、エンドクレジットの打ち出し方は、完全に喜劇(=コメディ)を想定したものだった。
まさに、怪(開)演。

タイトルのフォントは、描かれるストーリーとミスマッチ感があった。一方主人公のアーサーは、これから始まるストーリー(彼の人生)を喜劇だと捉えているわけで、JOKERの演出した喜劇という視点で見ると、それはそれで筋が通っていることになる。

他にも、本気でこれが喜劇だと思い込んでいるとほのめかすシーンがあって、例えばチャーリー・チャップリンの『モダンタイムス』が挿入されていたシーンなんかがある(チャップリンは「喜劇」王と呼ばれた人物だ)。

最後のゴッサムが燃えるシーンで、アーサーが気持ちよさそうに喝采を浴びているシーンは、今でも鮮やかに脳裏に映る。なぜコメディアンになりたかったのかという背景についてはあまり言及がなかったけど、人を笑わせて喝采を浴びるコメディアンになりたかったアーサーが、囃し立てる声を喝采に聞き換えて社会的に注目を浴びていることは、皮肉にも「自分の人生以上に高価な死を望む」目的につながっている。そして、JOKERがここで生まれたという、印象的なシーンでもある。

現実世界で映画を見るということと、JOKERの手掛けたネタ(=犯罪劇)を見るということにおいて、私たちは二つの意味で観客だった。

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犯罪に関して、以前見た映画『永遠に僕のもの』の感想をまとめた際に、少し書いている。

『永遠に僕のもの』の主人公カルロスは、犯罪そのものが引き起こす影響に何らかの意味を見出すというより、自分の本能(例えば「これが欲しい」といったような欲求)に従った結果、それが犯罪となってしまったというような、付帯的なものとして描かれていた。

けれど、『JOKER』の主人公アーサーは、明らかにカルロスとは違うタイプだ。劇中で話が進むにつれて、彼を取り巻いていた環境が一つ一つ取り外されて壊されて、犯罪に魅力を感じることに気が付いてしまう。喜劇を作り上げて上演することが喜びとなる人がいるように、犯罪を起こすことにこそ、その存在意義があると思っている人間だ。

たいていの犯罪者は、犯人が自分であることを知られないようにするものだけど、JOKERは違っていた。混沌の代名詞と化したゴッサムにおいては、むしろ知られることで「ヒーロー」になり、「自分の人生以上に高価な死を望む」というアーサーの目的が果たされることになる。

そうした行き過ぎた自己顕示欲から、マレーの番組で、『JOKER』という名前を名乗っているんだろう。

JOKERは、トランプにおいてしばしば、普通のカードとは異なる特別なカードとして用いられる。例えば、大富豪(大貧民)では、何にでもなれる最強のカードの役割を担っている。すなわち、これまでは世間が見向きもしない普通のカードであったけど、三人の殺人事件をきっかけに世間はアーサーの存在に目を向けるようになり、自分は特別(JOKER)であると思い込んだ。

現実の社会をトランプのゲームに例えるのもどうかと思うけど、大富豪ではJOKERが有用なカードとなる。劇中では、混沌にまみれたゴッサム自身が抵抗の手段としてJOKERを必要としていて、それはもしかすると今の社会も変わらないんじゃないかと思ってしまう。

精神病で、 気の狂った人というレッテルを貼り、遠ざけることで考えないようにする(=思考停止)のは簡単だけど、JOKERを誕生させたのは、間違いなくゴッサムの社会であるし、それはどんな形であれ、実在する人間が作り上げた社会だ。

JOKERは革命を起こして、大富豪になれる切り札であるけど、こうした手段でしか生き残れない社会、それを夢見ることしかできない社会は、ゴッサムくらいにしたい。

#映画 #感想 #JOKER

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