菓子パンの中身は
「なんでこうなっちゃったんですかね」
「あたしに言われてもねぇ」
私鉄の中規模駅沿線から2分の立地にある中規模スーパーは、閉店まで数時間だった。惣菜に値引シールが貼られる20時頃になると、わらわらと一階の惣菜コーナーは賑やかになる。
バックヤードまでは喧騒は聞こえてこない。本来なら出入口で仕事をしているはずの老いた警備員は、困惑する二人の前で「嘘だ嘘だ」とぶつぶつ呟きながら、項を垂れている。
ワイシャツにオレンジのエプロンをつけた二十代半ばの男は、老婆を見下ろすと仕切り直すように言った。
「さっきあなたは万引きした事実を認めました。本来なら警察に連絡するところですけど、反省して、もうしないと約束するのなら、こちらに記入した後、帰ってもらっていいですよ」
万引き犯らしくなく泰然とした様子の老婆は、ゆっくり店員の顔を眺めると、机の上に置かれた菓子パンに目をやった。
「これは持って帰っていいのかい?」
一瞬ぽかんとした若者は、その言葉を咀嚼すると顔を赤くした。
「いいわけないでしょう! ……あなた反省してないんですか? こっちは警察に突き出したっていいんですよ」
「ちょっと待ったぁ!」
思わぬところから声が上がった。先ほどまで頭を抱えてひとり言を言っていた警備員だ。
「きっと、なにか、やむにやまれぬ事情があったんだ。……そうですよね?」
老婆に同意を求めるも、手元の帽子を両手でこねくり回しながら、顔は背けたままでいる。
「まあ、空腹はやむにやまれぬ事情だろうね」
「違う! そんなもんじゃなくて、もっと、なんか……」
警備員は一人懊悩としており、同じ空間にいる二人はそれぞれの役割も忘れ、顔を見合わせた。
「なんなんですか、この人」
「だから、あたしに言われても困るよ」
これにも警備員は噛みついた。
「あなたは、“あたし”なんていう人じゃなかったのに!」
寸の間驚いた表情を見せた万引き犯である老婆は、すぐに表情を戻した。
「……ああ、なんだ。あんた、昔の知り合いかい」
「あなたは悪事に手を染めるくらいなら、餓死を選ぶほどの高潔さを持った方だったはずだ!」
鷹揚に構えていた万引き犯は、少し気分を害したように見えた。
「人違いじゃないかい?」
「そんな……私だって人違いであって欲しいですよ! でもあなただ! 俺が憧れてやまなかった、高嶺の花!」
叫んだ後、息切れしたように荒く息をついている。警備員の吐く息だけが熱を持っていた。万引き犯は肩で息をしている警備員を、これ以上ないと言ったほど冷めた目で見ている。
「高いところから落ちてガッカリって、言いたいのかい」
先ほどまでの、投げやりともとれる話し方ではなかった。
それを警備員も感じたのか、慌てて顔を上げた。ずっと目を逸らしていたのに、目が合ってしまった先には、怒りともとれる表情を浮かべたかつての憧れの人。黒よりも黒い意志をもった瞳だけが変わらずあった。
「理想を崩されたお詫びが欲しいのかい? 土下座でもするかい? 憧れだった女を這いつくばらせるのは、さぞ気持ちがいいだろうね」
「俺は、……そんなつもりじゃ」
「あの、」
スーパーの店員が、呆れ顔で二人を眺めていた。
「盛り上がってるとこ悪いんですけど、そろそろクローズの準備したいんで、この書類に記入してもらっていいっすか?」
「なにがそんなに悲しくて泣いているの?」
川の土手に座り込んで、誰が目を向けようと構わずに泣きくれていた少年は、びくりを肩を震わせた。
恐る恐る顔を上げると、まつげが数えられるほど近くで覗き込まれていた。
「うわっ」
驚きのあまり後退ると、草に滑ってそのまま下に滑り落ちた。原因となった女性は、少年の様子を見ておかしそうに笑っている。
「失礼な人だな、あなたは!」
少年は自分の悩みも笑われた気がして、激昂した。肩を怒らせて興奮する少年を見て、女性はぱちくりと目を瞬かせてた。
「……なにか、怒っているの?」
戸惑う声色に、こんなにも振り回されている己の怒りも、羞恥も、彼女には関係のないことなのだと気づく。その事実に、少年は愕然とした。
(この美しい人の縁談を漏れ聞いて、絶望で泣いているなんて気づくはずがない。登下校中に見かけるあなたに恋をしていたなんて、気づいてくれるはずがない。)
そのまま少年は走り去り、弁解も告白も女性に告げることはなかった。
バックヤードから追い出された警備員と万引き犯は、会話を交わさなかったが、しばらくすると、どちらともなく視線を交わした。
「時間の流れは残酷だ」
「そんなもんだけで、こうなったわけじゃないけどね」
「じゃあなぜですか?」
「さぁ~、忘れちゃったねぇ」
老婆は、警備員を狼狽した様子を見ておかしそうに笑っている。
「つっ、罪の意識はないんですか」
「うん、そうだね」
「ないんですか?」
「あ~、相槌だよ今のは。ただ……そうだね、罪の意識なんてもんは、もうないかもしれないね」
「どうして」
「さあね」
老婆の顔に眉間の皺が増えたことに気づいた警備員は、慌てた。
「……なにか、怒っていますか?」
意外だったのか、老婆はぱちくりと目を瞬かせた。
「いきなりなんだい」
「いえ、憧れていたとはいえ、随分ぶしつけなことを言ったなと……」
思いがけない台詞に老婆は目を細めると、ポケットから菓子パンを取り出した。
「これを見逃してくれるんだったら、それでチャラにするよ」
棒立ちになる警備員を置いて、老婆はそのまま振り返ることなく歩いていった。
背筋のぴんと伸びた姿勢は、いつも見ていた姿のままだった。だが、もうかつて少年だった警備員が知る、淡い思い出の笑い方ではなかった。
やけにこだわった菓子パンは、もしかしたら彼女が食べるものではないのかもしれない。誰かが待っているのかもしれない。
そう思うと、あの女性のことを自分はなにひとつ知らないのだと、警備員は気づいた。