イアルの野
校舎の端に、忘れられた図書室がある。
どこもかしこも耐震を考慮された建物に生まれ変わったのに、木造のまま置いてきぼりの図書室がある。
校舎から渡り廊下はなく、一旦靴を履きかえなければならない。靴を履いて、上履きを持って、雨の日にはぬかるみを越えないと図書館には辿り着けない。
この高校の図書室は、自然と足が遠のく場所だった。
「失礼しまーす」
金髪の長い髪をゆるく巻いた、派手めの女子生徒が図書室に入ってきた。司書は奥の部屋にいて気づかない。
顔を上げたのは、カウンター内に座っていた女子生徒だった。
「なに」
黒縁メガネから表情は見えないものの、声はとてもよく響いた。
室内に他に生徒はいない。
「え? えっと」
黒髪のおかっぱ頭の生徒は、カウンターに頬杖をつき、なんとも迷惑そうに見ていた。
「私、図書委員になって、それで」
「あっそ」
全部聞かずに話を断ち切った黒髪の生徒は、背もたれに預けながらゆらりゆらりと体を揺らしている。
金髪の生徒がどうしたらいいかわからず、入り口に立ちつくしていると、準備室から司書が戻ってきた。
「あれっ、珍しい。本を読みにきたの?」
「図書委員だってよ」
当人が答えるより早く、体ごと司書の方を向いている黒髪の生徒が答えた。
「そうなんだ。本が好きなの?」
司書は金髪の生徒に笑顔を向ける。
「あっ、いえ。断れなくて」
「そっかぁ。ここ人気ないもんねぇ」
「そんなギャルギャルしい見た目しときながら、『断れなくて』って」
意地の悪い言い方に、新図書委員は怯んだ。ターコイズブルーのジェルネイルを落ち着きなく触る。
「もー、真崎さんたら、そんな言い方して」
「なにその呼び方。なんで苗字で呼ぶの」
「ここは学校でしょ。いつまでも子どもぶらないの」
「子どもだもーん」
新図書委員に向けた硬さとは違う、甘さを含む声色だ。そのまま司書の腰に抱きつく。
「こら、甘えないの」
「いいじゃん、桜姉ちゃん」
思ってもみない距離の近さに動揺したのがきっかけになったのか、新図書委員は声を上げた。
「あのっ」
すっかり二人の世界を作っており、入り口に所在なさげにしている生徒を司書は忘れ去っていた。
「私はどうしたら」
「ごめんなさいっ。えっと、今日は委員会はないから好きにしてもらっていいんだけど……あ、私はここの司書で宮野です。この子は真崎さん。図書委員じゃないんだけど、いつもここにいるから、主みたいなものかな」
「あ、私は2ーBの先森です」
紹介された真崎だという生徒は、邪魔だという姿勢を崩さない。先森はちらちらと、宮野の腰回りにまとわりついている真崎に視線を送っていた。
「この子は近所に住んでいて、昔から知ってるの。距離感おかしいよね」
「あ、いえ、はい」
「どっちだよ」
やけに冷たい真崎の態度に司書の宮野が驚いていると、準備室の内線が鳴った。
「わっ、ちょっとごめんなさい」
慌てて電話をとりに行った宮野がいなくなり、生徒二人が残される。
「……今日委員会ないのに、なんで来たの」
「あ、私方向音痴だから、迷わないように一度行っておいた方がいいって言われて」
「ふうん」
その後会話が交わされることはなく、気まずい空気に耐えきれなくなった先森は、司書戻ってくるのを待って帰宅した。
見た目はギャルの先森は、図書室の主である真崎に邪険にされたにもかかわらず、足繁く通うようになった。カウンター内に座って本を読んでいる。時折顔を上げると、誰もいないひっそりとした本棚を眺めている。
手を伸ばせば届く距離にいながら、二人は会話をしなかった。派手な外見のはずなのに、先森が醸し出す雰囲気は静かで、希薄だった。宮野と話していると、真崎はもう一人の存在を忘れることがしばしばだった。
「ねえ」
真崎に話しかけられていることに、先森はしばらく気づかない。左側がなんとなく気になって顔を上げると、真崎が頬杖をついて先森を眺めていた。視線に気づくまで、たっぷり1分はかかっていた。
「あっ、……なに?」
愛想笑いを向けると、真崎のアクションを待った。
「なんでここ来るの?」
黒縁メガネの奥から刺すような視線を感じる。
「図書委員だから……」
「いや、あんた以外のやつ誰も来てないだろ。利用するやつもいないし、図書委員なんて名ばかりなんだから来なくていいんだよ」
「でも……」
「なんかさ、あんた見た目と中身がちぐはぐでよくわかんない。なに考えてんの?」
「なにって言われても……。一緒にいた子に近寄るなって言われたの。だから、ここで本読んでる」
真崎の黒髪に隠れている眉間に、皺がぎゅっと寄った。
「それってさぁ、“だから”じゃなくね?」
「え?」
「いやだから、あんたいっつも『言われた』『言われた』ってなにかしらのせいにしてるけど、その本持ってんのも、その椅子に座ってんのも、あんたの筋肉とかなんかしらだから。あんたの脳みそが指令出してんだよ。知らないの?」
「……そういう、ことじゃなくて」
「じゃあどーいうこと?」
ちらりと本棚に目を向ける。
「人のせいにしたいんじゃなくて」
真崎ではなく、まっすぐ本棚に向かいあった。
「ここは、“在る”だけを許してくれるから」
「はあ? 意味わからん」
準備室で作業中の宮野の元に真崎が姿を消しても、先森は変わらず本棚を見つめている。
深く息を吸うと、静かに吐いた。口元は少し微笑んでいた。